底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

真剣に取り組みたい

1

何か一つを真剣に取り組んだ人にしか分からないことがある。それは自分自身の無力さだ。真剣にやればやるほど自分のできることの小ささに気づく。我々は皆凡人だ。天にたなびく煌びやかな才能を持つ彼らとはわけが違う。自分のやろうとしていることの多くが、既に他の誰かがとっくの昔にやってきたことだ。その現実を冷静に見られる大人はだからこそ、一つのことにはのめり込まない。仕事や家族、友人や趣味と、それぞれに自分の人生を分散をさせて、普通の暮らしを楽しむ。極めて真っ当な生き方だ。その生き方ができる人は、皆それで幸せになれば良い。

 

 

2

問題はそうではない人だ。それだけでは満足できない、やはり何か一つ真剣に命をかけて生きたいようなことがある人にとって、そんな生活は誤魔化しでしかない。自分の無力さを言い訳にして、諦めたふりをしているだけである。自分の無力さと向き合うのは怖い。寿命まで全うできる一生があったとしても、一体どこまでできるのか、そのスケールの小ささがもうだいたい分かる。そんな分かりきったゴールに向かって真剣にやるには、もはや狂人となるか或いは、常人のままで、必死に一歩ずつに意味を見出していくしかない。

 

 

3

真剣に取り組む。それはやはりとても根気のいることだ。真剣というのは態度の話であるが、態度だけ真剣であれば良いなんてことはもちろんない。結果が伴わないのなら、そんなのは真剣にやったうちに入らない。どうすれば一歩でも前に進めるのかを考えて実行し、結果としてきちんと表れてやっとそれは真剣だったということになる。真剣にやればやるほど自分の無力さに気づく。しかしその一方で自分にしかできないことも僅かながら見えてくる。それを逃さずに極める。凡人が一つのことに真剣になろうとするのなら、そこに賭けるしかないのだと思う。

 

 

4

無力さに気づいてからがスタートだ。無力であると知りながら、それでも自分の中に残る炎をどうにかして形にしたい。どうしてもそこだけは諦められない。だから代わりに他の全てを諦める。無様でもいいし、失敗を繰り返したっていい。前に進む速度が遅くとも、ただ真剣にやらねばならない。真剣な大人は本当に色気がある。色々なことを懸命に諦めて、どうにかこうにか自分と折り合いをつけてきたその歴史を感じられるからだ。アラサーにもなって、やっとこの頃自分の理想の大人像を考えた。あまりに遅い気もするが、これから少しずつでも近づけるように、より一層真剣に生きていきたい。

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