底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

生きにくい世の中や人生があるのではない

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この頃、生きにくい世の中だとか、生きにくい人生だとか、そういうフレーズをやたら見聞きする。これ、個人的には不思議である。だって、元々そういうものではないか。生きにくい世の中や人生があるのではなく、世の中や人生というものがそもそも生きにくいものでしかあり得ない。世の中や人生にわざわざ生きにくいとつけるのは、まるで生きにくいのではない世の中や人生があるかのような言い方である。

 

 

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どうも、今よりも生きやすい世の中や自分よりも生きやすい人生がある、と思う人が圧倒的に多いようである。しかしそれはただの幻想だろう。もちろんそれは、それらが存在しないと言いたいのではなく、そもそも生きづらさは比べられるようなものではないという意味である。過去の世の中には過去の世の中の生きづらさがあり、今の世の中には今の世の中の生きづらさがある。そして、未来の世の中にもまた未来の世の中の生きづらさがあるだろう。時代と共にその形が変化するだけで、どちらの方がより生きづらいなどと比べることはできない。人はそんなメタ的な視点を持てない。比べられるような気がするのは、今の世の中の常識を無根拠に前提で基準にしているからである。個人の場合もまたしかり。そこには人の数だけ違う生きにくさがあるだけで、どちらの方がより生きにくいなどと比べることは決してできない。比べられるような気がするのは、同じく自分の感覚を無根拠に前提で基準にしているからに過ぎない。

 

 

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世の中はそうあるが、自分はそうできない、そうしたくない、或いはそうであるべきだと思わない。そういう世の中と自分とのズレが、つまりは生きにくさの正体であるが、このズレをなぜか解消すべきものだという前提に立って、自分か世の中のどちらかにその原因が見出して糾弾しようとする人が多いようだ。だから生きづらい世の中だとか、生きづらい人生だとかそういう言葉になるのだろう。

 

 

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ズレがあるのは自分という人間が存在するからに他ならない。自分という他の誰とも経験も感覚も違うひとりの人間が存在するからこそ、そのズレがあるのである。それは解消されるべきものではないし、そもそも解消できるようなものでもない。それは自分を自分として確立してくれるものであり、誰にでも馴染のある言い方をするなら「生き甲斐」に他ならない。自分にしかできないことで、かつそこにやる意味を感じられることを、人は生き甲斐と呼ぶ。そのズレをどうにかこうにか楽しんだり克服したりしながら、最期まで自分の人生を生き抜くことはその人生に生まれついた自分にしかできないことであり、かつそれは、これからを生きる全ての人のための「そうして生きた人もいる」という一サンプルとして、大いに役立つものである。

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お互いに努力をしてこそ正常に機能する言葉

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「気持ちだけで嬉しいよ」という言葉がある。これは本当に難しい言葉だ。なぜなら、本当に気持ち「だけ」であるなら、およそ、その気持ちを感じとることは本人以外、誰にもできないからである。気持ちを相手に感じさせるためには、それに伴った行動が必要になる。「気持ちだけ」という言葉には、いつもその「だけ」に排除される何ものかが既に含まれていなければならないのである。つまりは、相手に「気持ちだけ」と言われるためにこそ、必ず気持ちだけではいけない。気持ちだけでなく、気持ちに伴った行動をしようとしたが、それがうまくいかなかった時に、やっと「気持ちだけ」という言葉が正常に機能するのである。大丈夫、それをしようとしてくれただけで嬉しいよ。気持ちは十分に伝わってるよ。そういう意味の言葉だ。気持ちを伝えようとする側が誠心誠意であり、気持ちを受け取る側が虚心坦懐である場合に限って、それは成立するのである。

 

 

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する側とされる側がお互いに清らかで思いやりに溢れていなければ成立しない言葉が、この世にはたくさんある。「お礼なんていいのよ」「居てくれるだけで十分」「私は何もしてないよ」「全然大丈夫」「私がしたくてしたまでよ」これらの言葉はある意味で、全て真に受けてはいけない。真に受けず、相手が自分を気遣かってそう言ってくれているだけなのだと解釈し続ける謙遜心がなければならないのである。

 

 

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本当にそうであるなら、相手はまずそれを口にする必要さえないのだ。だから、わざわざ口にすることの意味を考えねばならない。本当はそうではないのだけど、そうではないという事実があまりにあけすけで優しくないので、自分のためを思って隠蔽し、本当を塗り替えようとしてくれているのだ。その努力に目を向け、敬意を払い感謝し続ける。良好な関係とは常にそのようにして築かれ、持続される。

 

 

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相手が言ってくれたその言葉が嘘にならないように、こちらも努力をする。お礼なんて本当にいいのよと思わせるくらいにお礼をきちっとして、本当に居てくれるだけで十分と思われるくらいに自分が居ることのメリットを相手に与え、本当に何もしてないのよと思って貰えるように恩を返し、本当に全然大丈夫だと思ってくれるようにちゃんと償いをし、本当に相手がしたかっただけなのだと心から思えるように、より良い関係をつくりあげる。する側は本当を隠蔽し塗り替えようと努力し続け、してもらう側はその塗り替えられたものを本当にしていくという努力をし続ける。そのようにしてのみ、それらの言葉は真に輝くのである。

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どうにもできないことはどうにかできることと繋がっている

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自分の意志とは関係なく、してしまうことが人にはある。不安に思っても意味がないと分かっているのに、ついそれを何度も想像してしまったり。他人を悪く言っても仕方が無いのに、つい口をついて雑言を吐いてしまったり。自分のプラスにならないと知りながら、やめることのできないことが人には本当にたくさんある。人の悩みのタネはほとんどこれだと言ってもいい。〜したくないのに〜してしまう。解決するにはさぁどうすればいいのだろう。

 

 

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認識する順番を入れ換えるのがカギだと思う。〜したくないのに〜してしまう。のではなくて、〜している自分をまずしっかりと認める。したいしたくないに関わらず、現にしているのだから、しているのだという事実を先に受け入れ、そこからじゃあ、したくないという自分の思いに現実を近づけていくにはどうすればいいのかと考える。〜したくないのに〜してしまう。のように「思い→現実」の順番ではなく、〜してしまうから〜して改善しよう。という「現実→思い」の順番が、実地的に問題を解決していくのではないだろうか。

 

 

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人間の意志の力では届かない問題が世の中には多くある。けれどもその大半は意志の及ぶ範囲を改善することで解決できるものだ。何かの災厄を事前に阻止したり、取り除いたりということはおよそ人には無理であるが、あらゆるパターンの災厄を想定し、その一つ一つに対して予め対策を講じておくことならできる。問題の解決は何もその根っこを取り除くことだけにあらず。

 

 

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全ては正しい現実の認識から始まる。何を解決するにもそこを避けて通ることはできない。どんな自分も一旦はまず認めて、そこから立ち上がるしかない。最初から自分の思いにかまけて現実を拒否するのでは、いつまでもそのままであるのは当然の話だ。

 

 

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自分の意志に関係なくしてしまうことは、大抵自分の意志でどうにかできることとどこかで繋がっている。不安に思っても意味がないことをつい不安に思ってしまうなら、まずそんな自分が不安になる環境に身を置かない。或いは不安に思う自分自身をそもそも不安に思わなければいい。他人を悪く言っても仕方がないのに言ってしまうなら、悪く言いたくなるような他人と人付き合いをしない、或いは他人に関心を持たなくなるように他のことを始めてみたらいい。解決の方法はどこにでも転がっている。それを手にとらないことこそが自分自身の意志による選択だ。どうにもできないのではない。どうにもできないということにして、どうにかしたくないだけであろう。

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現実は甘くないという甘々な現実

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人生で最も大切なことはつまるところ、自分の思う幸せや楽しさを壊さないこと、見失わないこと、手放さないことであると思う。それを犠牲にするような、それが分からなくなるような、そこから目を背き続けるような生活が、結局は自らを惨めにさせ、他者へのマイナスな関心を抱かせる。現実はそう甘くない、と人は言う。それができるのはひと握りだけで、残りの人は大なり小なりそんな惨めな生活を送らざるを得ないのだ、と。でも本当にそうなのだろうか。確かに世界は現にそうであるように見えるけれど、本当に本当に、みんな本気を出しのだろうか。

 

 

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そうじゃない、と私は思う。このくらいの幸せが自分に似合う。そこそこ楽しければいい。今ある環境から抜け出すのが怖い、変えるのが億劫。幸せや楽しさよりも安全が欲しい。もう求めたくない。考えるのがめんどくさい。とにかく早く落ち着きたい。そうやって、自分自身の幸せや楽しさを軽んじてる人ばかりではないだろうか。自分がそうして軽んじているから、当然世の中からも、そうして軽んじられる。現実が甘くないのは、自分が自分を諦めた、ただの跳ね返りに過ぎない。

 

 

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諦めなければどんな物事でも叶う。なんてのは子供騙しのおとぎ話だが、しかし、これは半分本当だろう。大抵の物事はそれを目指しいる時点で既に半分叶っている。自分の楽しさや幸せを目指すその活動自体が、自分を楽しませ、幸せにするのである。そうでなければ、そもそもそれが自分にとっての楽しさや幸せであるはずもない。語弊を恐れずに言えば、ちょっとした不幸や不満を抱え続けることは楽なのである。それは自分自身の幸せや楽しさを諦めるちょうどいい言い訳をくれる。私が目指さないのではない。不幸や不満が私を目指せなくさせているのだ。どうしようないから、仕方なく今の生活に甘んじているのである。

 

 

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でも、やはりそうではないだろう。自分の幸せや楽しさを諦めざるを得ない事情や理由など、この世には何もないということこそが、果てしない現実である。その恐ろしい現実を、しっかりと直視しなければいけない。全ては、何かの事情や理由を掲げて、自分自身がそれを諦めの言い訳にしているに過ぎない。現実が甘くないのは、みんなが甘くなってもらっては困ると思うからだ。甘くなっては自分の幸せや楽しさを目指さざるを得なくなる。ただ自分が自ら目指していなかっただけということがバレてしまう。だから現実は甘くないという甘々な現実を見続けようとする。今の世の中はただ、そんな多くの人の願いをその通りに叶えたものである。

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自分を愛すために世界を愛さなくちゃならない

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人間が狂うのはいつだって自己愛が破壊された時である。自分の理想とする自分と現実の自分があまりに乖離した時、人はそれに耐えきれず理性を失う。理想の自分に近づくためのあらゆる努力を放棄し、理想の自分にしてくれない世界の方を恨み否定するようになる。自己愛を直接満たす術がもうないから、世界を否定することで間接的に自己愛を満たそうと考えるのである。けれども、もちろんそれはそうすればするほど虚しい結果を招くだけだ。瞬間的な快楽として満たされることはあっても、中枢はいつも冷たく死んでいる。

 

 

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しかし一度狂った人間はそう簡単には正常へと戻れない。いや、もう二度と戻れないとさえ言ってもいい。自己愛を破壊された恨みが晴れることは決してないからだ。あるとすればそれは破壊された事実を本人が忘却した時だけである。だから狂った人間がそれでもかろうじて正常な人間の皮を被って生きていくためには、結局どこかでその虚しいを行為をして、狂いを発散させなければならない。人にはそれを狂いと悟らせないような発散の仕方で。例えば、今私はまさにそれをやっているところだ。何かを書いて、それを不特定多数に見せるということは、私にとって世界の否定行為そのものである。

 

 

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破壊され乾き切った自己愛は常に膨張し拡大を繰り返す。それはやがて世界と同じ大きさに到る。一度狂ってしまった人間は、もはや世界をどうにかすることでしか、自己愛を満たす術はないのだ。世界をどうにかするとはもちろん、自分の理想とする世界を作り上げるのである。そのために自分のできる限りを尽くすということだ。つまりは一周してここで正常な人と合流する。正常な人間が自分の自己愛を直接に満たすような努力をするのに対し、狂った人間は自分の理想とする世界を叶えるこためにこそ努力をする。それは一見しただけでは全く見分けがつかないだろう。だが、本質は驚くほどに違う。

 

 

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狂った人間が再び自己を愛すためには、もはや世界を愛なければならない。それは途方もないことである。しかし、現実を見据えるならやはりそれしかない。簡単に嫉妬したり手軽に復讐するだけでは、瞬間的な快楽にしかならず、根本的解決には向かわない。せいぜい影響しても周りの数人だけである。徹底的に嫉妬し、徹底的に復讐をしなければならないのである。自分の自己愛を満たしてくれる世界に改変するほどの徹底ぶりで、全てを行うのだ。自己愛が破壊された世界で、それでも自己愛を持つべく立ち上がろうじゃないの。だって、悔しいじゃん。ねぇ。

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