底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

美容院行ったので見た目について考えた話

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今日は髪を切りに行った。生活の中で数少ないイベントの日だ。前の美容院記事の中でも書いた気がするが、私は万年ショートカットである。その髪型が好きとか、自分に似合うとか、そういうのではなくて、ただ髪を洗うのも乾かすのも面倒なので、楽な髪型にしているだけである。もしも世の中の人の自分の見た目を気にする度合いが1〜10まであるとすると、たぶん私は2か3くらいのところにいる。人と関わる上で酷く不潔だとか思われない程度に整えて、あとはもう本当にテキトーである。こだわりもないし、なりたい姿もない。そもそも他人のためにしか見た目を気にしようと思えない。

美容院で人の優しさに感動した話 - 底辺人間記録

 

 

2

自分の見た目なんて鏡をみる時くらいにしか映らないのだから、自分にとってはほとんどどうでも良いものだと言える。その鏡を見るのだって、他人にどう見られているのかと確認するためであるから、自分自身には本当に見た目は意味がないものである。私には他人の目に映る自分を良いものにしようという心がまるでない。なぜなら私をどう見るかはその人が決めることであるのだし、どう見えようともそれはその人から見た私でしかないからだ。そのことによって私の何がどうなるということもあるまい。

 

 

3

誰も生まれつく個体を選べない。だからこそ個体差に全依存する見た目は本当にどうでも良いことなのだと思えてならない。その個体の中で光る私だけが大事なのであって、他は全部瑣末なことである。もし自分を光らせるのに個体の持つ性質があまりに邪魔だと思うのなら、それはきっと、単に自分の光らせ方や光らせる場所を間違えているだけである。活きることはあれども邪魔には決してならない。それこそが自分を光らせるということに他ならないからだ。

 

 

4

自分自身を光らせるのに見た目を必要とする人はたくさんいる。それはたぶん他人の目に映る自分が光っていないと自分も自分自身が光っていると思えないし、他人に光っていると認められてやっと、自分でも光っているんだと胸を張れるようになるからだろう。けれども、やはりそんなことはないのである。光っているかどうかは自分にしか分からないし、自分だけが分かっていれば、本来それで十分なのだ。他人の目に映る自分は自分のようで自分ではない。それに他人の目に本当は自分がどう映っているのかなんて知りようもない。そこに重きを置いても、出口のない迷路にハマるだけである。んでもまぁ重きを置かなさすぎるのも良くないんですけどね。最低限のマナーとして気にするくらいがちょうど良い。(書くこと以外を書くことに成功した!やった!)

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