底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

生きにくい世の中や人生があるのではない

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この頃、生きにくい世の中だとか、生きにくい人生だとか、そういうフレーズをやたら見聞きする。これ、個人的には不思議である。だって、元々そういうものではないか。生きにくい世の中や人生があるのではなく、世の中や人生というものがそもそも生きにくいものでしかあり得ない。世の中や人生にわざわざ生きにくいとつけるのは、まるで生きにくいのではない世の中や人生があるかのような言い方である。

 

 

2

どうも、今よりも生きやすい世の中や自分よりも生きやすい人生がある、と思う人が圧倒的に多いようである。しかしそれはただの幻想だろう。もちろんそれは、それらが存在しないと言いたいのではなく、そもそも生きづらさは比べられるようなものではないという意味である。過去の世の中には過去の世の中の生きづらさがあり、今の世の中には今の世の中の生きづらさがある。そして、未来の世の中にもまた未来の世の中の生きづらさがあるだろう。時代と共にその形が変化するだけで、どちらの方がより生きづらいなどと比べることはできない。人はそんなメタ的な視点を持てない。比べられるような気がするのは、今の世の中の常識を無根拠に前提で基準にしているからである。個人の場合もまたしかり。そこには人の数だけ違う生きにくさがあるだけで、どちらの方がより生きにくいなどと比べることは決してできない。比べられるような気がするのは、同じく自分の感覚を無根拠に前提で基準にしているからに過ぎない。

 

 

3

世の中はそうあるが、自分はそうできない、そうしたくない、或いはそうであるべきだと思わない。そういう世の中と自分とのズレが、つまりは生きにくさの正体であるが、このズレをなぜか解消すべきものだという前提に立って、自分か世の中のどちらかにその原因が見出して糾弾しようとする人が多いようだ。だから生きづらい世の中だとか、生きづらい人生だとかそういう言葉になるのだろう。

 

 

4

ズレがあるのは自分という人間が存在するからに他ならない。自分という他の誰とも経験も感覚も違うひとりの人間が存在するからこそ、そのズレがあるのである。それは解消されるべきものではないし、そもそも解消できるようなものでもない。それは自分を自分として確立してくれるものであり、誰にでも馴染のある言い方をするなら「生き甲斐」に他ならない。自分にしかできないことで、かつそこにやる意味を感じられることを、人は生き甲斐と呼ぶ。そのズレをどうにかこうにか楽しんだり克服したりしながら、最期まで自分の人生を生き抜くことはその人生に生まれついた自分にしかできないことであり、かつそれは、これからを生きる全ての人のための「そうして生きた人もいる」という一サンプルとして、大いに役立つものである。

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