底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

この世で最も兼用であり専用であるもの

言葉は兼用

前回に関連した話。この世で最も兼用であり、最も専用であるものは言葉だろう。言葉ほど多くの物事に用いられるものはなく、言葉ほど一つの物事を正確に表せられるものもない。だが言葉は必ず兼用だ。たった一つのものを表す専用であることは決してない。あるものに言葉をあてがい、名前をつけるためにはまず、それが一つのものであると我々が認識できなければならず、そして、一つのものであると我々が認識できるためには、必ず時制的同一性を要求する。1秒前のあるものと今のあるものを同じものと見なす我々の認識が、言葉を可能にしているので、今この瞬間だけの「それ」を表すことのできる言葉は存在しないのである。

 

 

言葉は専用

だがその認識の上では、言葉は専用である。ある言葉が他の意味を成すことは決してない。雲と言えば「あれ」であり、空と言えば「アレ」である。その専用性は驚くべきもので、雲は雲以外を表すことは絶対にできないし、空もまた同様である。専用で「ありすぎて」もはや、「なんの」専用であるのかを我々は理解することができない。なぜあんなにも多種多様な雲を雲と呼べるのに、雲以外を雲と呼べないのか、雲と雲以外を分かつものはなんなのか、何があれば雲と呼べるのか、何がなければ雲と呼べないのか、考えれば考えるほど謎なのである。

 

 

哲学者と言葉

言葉は無限に多様化細分化可能だが、我々の認識の原則を破ることはできない。言葉は永遠にこの苦しみの運動の中にある。どれほど言葉を尽くしても尽くしても、絶対に言い表せない「そのもの」がある。哲学者と呼ばれるような人達はある意味でずっとこの言葉による転覆を成そうとしている。言葉の限りをつくして、いかに「それ」が言葉にできないのかを語ることによって、逆に言葉に載せようと試みているのである。しかし、もちろんそれが成功することはない。だが、だからといって意味がないとは言えない。なぜなら、徐々に近づくことはできるからだ。永遠に到達はできないとしても、少しでも迫れたのなら、それは果てしない偉業である。

 

 

もしかして:キモイ

私が語り出すものは私以外から語り出されることはない。その意味でこれは私専用の言葉だ。だが、それを読み意味を理解しようとする人がいれば、その瞬間、書かれた全ては私とあなたの兼用となる。私は私の言葉が隅々まで兼用となることを望む。なぜなら、そのことによってこそ、ここにある言葉は私の私だけの専用の言葉になり、あなたのあなただけの専用の言葉になるからだ。

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