底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

あるようでない、ないようであるもの

1

無は無なのだから、そんなものは無い。この世には最初からそもそも有しかない。全てが有なのであり、有こそが全てなのである。しかし、もしそうであるとしたら、上の言葉は変である。だって本当にそうなのだとしたら「有しかない」の「しか」は意味を持たないはずだし、「全て」と「有」は元より同じ意味の言葉になってしまうのだから、「全てが有」なんて言い方も通らないはずなのである。だが、現にそうなってはいない。我々にとって、冒頭の言葉はきちんと有意味なものだ。「全て」と「有」はしっかり違う意味の言葉として機能していて、「しか」という言葉で排除された何かしらが、やはりそこにはちゃんと存在している。

 

 

2

では一体何がそこから排除されているのだろうか。「全て」と「有」の間に割って入ることができて、且つ「有」とも「無」とも言えないものとはなんなのか。そんなの決まっているだろう。答えは一つしかない。即ち、「あるようでない、ないようであるもの」だ。拍子抜け感半端ないが、有とも無とも言えないものなんて、その間の曖昧で掴みどころのないものでしか有り得ないだろう。曖昧で掴みどころはないが、しかし我々にとって実はとても身近な概念である。こう言い換えれば、分かりやすいかもしれない。例えば「あったけど今はない」とか、「あそこにはないけど、ここにはある」とか。言わずもがな聞き馴染みがありますよね。あると言うには何かが足りないし、ないと言うには何か引っかかる。そんなようなものを言い表すぴったりな言葉がある。「不在」の二文字だ。

 

 

3

そもそも人にとって何かが「ある」ためには、そのものは不在であることもできるのでなければならない。今自分の目の前にあるものは自分が目を逸らしたとしても、依然そこにあると人はよく知っている。自分の視界にはなくとも、そこにちゃんとあるという不在の概念をきちんと理解しているからだ。

 

 

4

例えば、過去とは今の不在である。かつて今であったが、もう今ではないものであるから。或いは死んだ人とは実存の不在である。実際には存在していないが、他人の記憶にはいる存在であるから。世界には不在があちらこちらに散らばっている。そもそも存在する全てはどこかに不在の要素がなければ、我々の目に「有」として映ることはないのである。あるようでない、ないようである。或いは世界そのものがそんなような存在なのかもしれない。そして、自分自身さえも。この世の色々なものに対して、どこが不在ポイントなのだろうと考えてみれば、面白いことがたくさん発見できるやも…?

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