底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

言葉を自由に使うためには意味から自由にならないといけない

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言葉というのものは自由には使えない。もちろん、どんな言葉を選ぶかは自分の自由だが、その意味は固定的である。既存の言葉には全て定義やその指定する範囲というものがあって、それを無視して自分勝手な意味で使っても、端的に用法を間違えているだけの人になる。しかし、現実的にはほとんどの人がこれをやらかしているのではないかと思う。言葉の歴史を見てみても、やがて、その間違いの意味で使っている人が多数になって、言葉の意味の方が訂正されるなんてことも、しばしばおきているくらいだから。みんなだいたいの感覚でしか言葉を使っていないのがよく分かる。もちろん私もその一人だけど。




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しかし、自明だがやはりそれはあまりよくないことだと思う。何がよくないって、自分の言いたいことと、その言葉で言われていることが違ってしまう。いや、違ってしまうだけならまだいい。問題は違う以前に、そもそも自分の言いたいことが言葉同士の意味の矛盾や齟齬によって「本当は」言えないのだということが起きてしまうのである。そうすると自分の言いたかったことそのものが成立しない虚構になる。虚構を虚構と気づかずに思ったり、それを口にしたりしてしまうのである。




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言葉の意味に敏感であるということ、それを正確に使おうと意識すること。自分の考えや思いは言葉をよく知ってから、それに載せる。そうすればこそ、虚構を免れ真になる。言葉とは、身体で言えば顔のようなものだ。他人によく見られるところであり、そこから自分が認識され、様々な判断を下される。虚構な言葉ばかりを語れば、当然信頼を失い、聞くに値しない言葉だと耳を塞がれる。が、真の言葉を語れば、仮に聞く人は少数だとしても、一人一人に真摯に向き合ってもらえるようになるだろう。




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自分の思う使い方よりも言葉本来の意味が優位にある。その意味をどう組みあわせれば、自分の言いたいことを言えるのか、それは言葉一つ一つの意味を知ってからでないと、考えても無駄である。雰囲気で、なんとなくのニュアンスで言葉を使わない。そうしてしまえば、たくさんの勘違いが生まれる可能性があるから。口にするのは、できる限りにおいて、その勘違いの可能性を全部つぶしてからにしよう。言葉は自分が思うよりもずっと意味がきちっとしているのである。シビアであり、繊細であり、ガチガチなのだ。だから、言葉を選ぶ時にも同様にシビアで繊細にならなければならない。近しい意味の言葉をいくつも目の前に並べてみて、その中で一つだけを選ぶ理由が明確に自分の中にある時、それこそが自分が言葉を自由に使えるようになった瞬間である。