底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

世界に対してもギャップ萌えしていくことができる

感覚と大きくズレた実際

感覚というものはいつも正しいとは限らない。むしろ往々にして実際とはズレている。我々には「地球は丸い」や「地球が回っている」と実感することはできない。現実味のない雑学レベルの知識としてそう頭に入っているだけで、感覚的には地面は平で回っているのは空の方である。だから、そんな知識が頭になくとも、我々は生きていける。事実昔の人はそうして生きてきた。知ることがなかったら、今のような発展した社会は望めないとしても、その知識がないだけで人類全体が生活できなくなるということはない。感覚と大きくズレているような実際は、所詮知っても生活が少しよくなるだけなのである。しかもそれは頭のいい、その実際を活かすことのできる人が知った場合に限っての話だ。凡人が実感できないレベルの実際を知ったところで何ら意味はない。本当にただ雑学としての知識が一つ増えるだけである。地球は丸いとも地球が回っているのだとも知らないとしても、日常生活で困ることはないであろう。せいぜい地球儀などを見て少し不思議に思うくらいだ。

 

 

意味がない

だから感覚と大きくズレている実際というのは本当に価値が低いと言える。実際はそうなのですよ〜と言われても、そう感じることができないのだから、当たり前と言えば当たり前である。あの人は実際は優しい人なんだよ〜といってもその優しさを肌で感じられなければまるで意味が無いし、あれは実際にはあなたに関係している事柄なのよといっても、その実感を持てなければやはり自分には関係していないも同じである。

 

 

意味がなくても意味がないと知る為にこそ

しかし、だからといってそれは無視されてもいいような事柄なのだろうか。感覚とは大きくズレているとは言っても、我々には知性というそのズレを認識するための感覚の受け皿は用意されているのである。知ったところでそう感じられないんだから意味はないだろというのも分かるのだけど、しかしそれを意味がないと判断するためにも、そもそも実際を知っていなければならないのである。

 

 

意味がある時もある

凡人が知っても、大きく歴史を変えるような発明に繋げるのは確かに無理である。それが凡人の定義でもあるのだから。だが自分の生活を少しよくするくらいの発想ならきっと誰にでも思いつけるはずだ。全てにおいて全く意味がないわけではない。実際が感覚の方に働きかけ、それを変えてしまうような場合も大いにあるのである。いわゆる人に対する「ギャップ萌え」なんかはこの仕組みによる最たるものだろう。我々は世界に対しても同様にギャップ萌えしていくことができるのである。

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