底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

自分にとっての書くことの変化

書くことは

以前の私にとって書くということは自分を書き記すことだった。それはつまり書くことを自分の外側に配置し、自分をこそ書くことの中に入れるという作業であった。だからこそ、それは毎日為されなくてはならなかった。書かなければ自分がそこで終わってしまう。終わらせないためには書くしかなかった。けれどこの頃はそれが大きく変わった。書くことは自分の一部になった。自分を書き記すためにではなく、ただ書くということをしている。それは洗濯や料理をするのと、何ら変わらない日常の行為の一つに成り果てた。

 

 

書くことは

以前の私にとって書くということは日常からの逃避だった。日常の自分から目を背けるためにここに肯定できる自分をつくりあげようとした。それが成功するはずもないことは、しかし当時の自分もよく分かっていた。だからやはり毎日為されなくてはならなかった。それだけが自分が諦めずに進んだ証になったからだ。けれどこの頃はそれが大きく変わった。書くことは自分の一部になった。自分を肯定するためにではなく、ただ書くということをしている。それは食べたり寝たりをするのと、何ら変わらない生活のサイクルの一つに成り果てた。

 

 

理由は理由にはなりえない

私は私を完全に諦めた。全てを自然なままに委ねることにしたのである。自分の内から瞬間瞬間に湧き出る欲望にのみ従い人生を生きる。書くこともその欲望と重なった時にだけここに来ている。何かの目的を成し遂げるために書くのでも、何かの苦難から逃れるために書くのでもない。ただ書きたいので書く、それだけである。なぜ書くのかと問うのもやめにした。食べることにも寝ることにも理由なんかありはしないのと同じだ。人は生きるために食べたり寝ているのではない。ただ食べたいから食べるのであり、寝たいから寝るのである。どんなことをある行為の理由に持ってきても、その理由と行為が絶対的に結びつくことはない。全てはあてがわれるだけである。

 

 

生は全ての外側

生きていることはどこまでも状態だ。それは己の欲望の内にはない。人は生の上で、生を土台にしてあれこれ欲望できるだけである。何かのために生きることは決してできない。生は全ての外側だ。生の中で書くことはできても、生自体を書き記すことはできない。なぜなら生自体を書き記すことも、生の中でしか行われ得ないからだ。私は長い長い道を辿ってようやく、そこに帰着したのだと思う。これはもしや後悔のない死にまた一歩近づいたのではなかろうか、と今はそんなことを考えている。

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