底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

多数派と少数派について

1

大抵の物事には多数派と少数派がある。けれども、それは細かいところを詰めていないがために、そう分かれているように見えるだけである。例えばある物事に対して、一口に賛成と言っても、その理由は様々であるし、条件付きの人がいたり、賛成度合いもきっと本当は全然バラバラである。ただ反対する人と比べた時に、大きな括りとして賛成のグループに入れられているだけである。多数派も少数派もこれは同じだ。党派というのはそういう細かいことは抜きにして、同じところだけを抽出する集まりである。

 

 

2

社会というのは多数派に利便があるようにできている。これは仕方のないことだ。秩序を保つためには何かしらの基準が必要であり、その基準は「多くの人々」に合わせざるを得ない。少数派はその多数派への利便の分やはり生きづらさを抱えてしまう。多数派はその利便には得てして鈍感である。そうであることが当たり前だと思っているからだ。少数派はその利便には得てして敏感である。まさにそうであることが自分を苦しめているからだ。多数派になれば楽になれる。そういうことが世の中にはたくさんある。そのために少数派はいつも目の前のことに対し、「その楽さを避けてまで縋る価値のあることなのか?」という問を突きつけられる。逆に多数派はいつも「楽だから乗っかっているだけで、本当は自分は違う意見なのではないか?」との自問を強いられる。

 

 

3

多数であることも少数であることも本来は結果的であるべきだろう。何かを選んだ結果「たまたま」多数であったり少数であったりするだけで、多数でありたいから、少数でありたいから何かを選ぶのでは、話が倒錯している。だが、現実には純粋に結果的であるのは酷く難しいことである。人は予測できる生き物だから、それを選んだ自分がどうなるのかと想像せずにはいられない。それを選ぶこととそれを選んだ自分がどうなるのかという二つを常に天秤にかけ、両方のメリットとデメリットを吟味することになる。

 

 

4

そうしてだいたいの人は「多数派でいるために元の選択を手放した人」と「少数派になってもかまわないと元の選択に縋りついた人」に二分される。だが、どちらも完全に心の底から納得して選んだのではないから、正当化を重ねる道に走ってしまう。元の選択が全て多数派にピッタリ重なっている人、いくら少数派でも元の選択をそもそも手放すことができない人、というのもこの世には存在する。しかしそういう人たちは少数派であろう。多数派はみなどこかで妥協をして生きている。

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