底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

兼用と専用について

兼用と専用

兼用というのはとても便利なことだ。一つのもので二つ以上の物事に役立てるなんて、本当に素晴らしいという他ない。けれど、これは貧しさの象徴であったりもする。専用のものが持てないからこそ兼用でしのごうとするのだと、そう見ることもできるわけである。逆に一つ一つのものに専用のものを必要とするなんてそれは考えの貧しさだ、と捉えることもできる。考えが貧しいから、兼用で対応可能な物事に対しても、いちいち専用を割り振らないと切り盛りできない。極論で考えればこれは「全ての物事に兼用できるたった一つのものがある方がよい」か、「全ての物事にそれぞれ専用のものが備わっている方がよいのか」という問題である。

 

 

現実の問題

現実的には、兼用が過ぎるとおよそどんな物事にももはや対応できなくなるという問題と、物事はいくらでも細分化可能なので精密な意味で何か一つに専用をあてがうことはできないという問題があると思う。兼用には常にある程度の専用性が必要であり、専用には常にある程度の兼用性が必要である。だから現実的にはどちらに極めてもやはり良くない。ほどほどのバランスが保たれているのがベストだ、が答えであろう。

 

 

もっと考えると

しかしもっと突き詰めて考える人なら、こんな答えでは満足しないでしょう。「仮にそれができるとして」がこの問題の前提である。現実的にそれができるかどうかなんて最初からどうでもいいのだ。仮に全てを完璧に兼ねることができるたった一つのものがあり、仮に全ての物事に専用を割り振るこどができるのだとしたら、どちらの方がよいのでしょうか。いや、もしそれが可能だとすると、もはや上二つの文言は同じ情景をただ別の言葉で言い換えているだけになるのではないか。だって、全てに完璧に兼用できるものがあるとしたらそれは一つ一つに専用があるということに他ならないのだし、全ての物事に一つ一つ専用があるというのは、そもそも全てを兼ねる何かがないと考えることさえできない。

 

 

根源的とより良い

その意味で兼用は専用よりも根源的である。タイムウォッチは時間をはかる専用のものだが、秒も分も測れるという兼用を叶えているからこそ、その専用性が保たれる。論理の上でも、永遠に細分化できる物事に対してはどこかで「一つ」として括らなければならないが、括った時点で必ず兼用性が潜り込む。どんな場合でも、その上でその「一つ」に対して専用のものがあるだけに過ぎない。だがだからこそ、専用の方が良いと言える。論理上の極限まで物事を細分化しそれに完璧に対応できる専用のものが都度ある方が良いのは自明であろう。「全てに兼用できる一つのものがある」「全ての物事に専用が割り振られている」同じ情景の描写であれど、それを目指す時に、前者の捉え方をするか後者の捉え方をするかでは、やはり歩む道は全く異なる。

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