底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

言葉は真実の選択である

言葉はアイロニー

例えば何かを変化したという意味で「変わったよ」と言えるためには、変わる前の状態と同一であると認識できるレベルの「変わってなさ」がその何かに残っているのでなければならない。でないなら、それは二つの別々のものとして認識されるだけで、同じ一つのものが変化したのだとは見なされない。言葉とは往々にしてそういうところがあるのだと思う。つまりあることを言うためには、そもそも、それと正反対の事実がまず存在していなければならないということ。言葉は常々そんな人をおちょくるようなアイロニカルな構造をしているようである。

 

 

それ=それの反対

「唯一だよ」なんて言ったりする時も、そもそも一つしかないようなものに対してその言葉は使われない。それと並び得る何らかの類似性や価値のある存在と区別する時にこそ、唯一だなどと口にされているのである。「信じているよ」という時も、本当に信じられているのなら、そのものはただそこにあるだけのものになるのだから、信じているよと言える余地はない。疑っているから、信じていると言うのである。東京タワーや富士山があることを私達はいちいち信じてはいないであろう。何かを「知らない」という時も、全てを知らないということはない。それを自分は知らないのだと判断できるくらいには知っているのだから。言葉はいつだって逆さまにできているのである。それを言うということはつまり、その反対のことを言っているのと同じなのだ。

 

 

あえて言うなら

本当は全部どちらも言えるのである。変わっていないとも言えるし変わっているとも言える、唯一ではないとも言えるしたった一つとも言える、信じているとも言えるし信じていないとも言える、知らないとも言えるし知っているとも言える。どちらとも言えるけれども、あえて言うとしたらこっち。それが言葉を口にするという行為なのである。

 

 

どの真実が好きか選べ

つまり言葉とは自分の世界に対する切り取り方以外の何ものでもないということ。どこを見てどっちを言うのかだけである。世界の方はいつも二面的だ。我々が片方を選んで語っているに過ぎない。語られた方だけが真実だということはないし、語られていない方はそれ故に真実ではないということもない。どちらも真実である。言葉とは「どの」真実を語るか、「どの」真実を切り捨てるかの選択なのだ。そこにはただ語り手の世界の見方が映し出されるだけである。だから自分の言葉の使い方を反省してみると色々発見があるかもしれない。自分はこの事に関してはこちらの面を見るのが好きなのかと気づくことが多々あるはずである。

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