底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

幸せと死と満足と幸福と死

幸せと死

幸せになればなるほど、死が忌避すべきものへと変貌するのは自明なことであろう。幸せはこの世の内にしかない。あの世まで見渡したのなら、そこに待っているのは必ずどこまでも続く虚しさである。その虚しさを忘れさせてくれるもの、見えなくさせてくれるものをこそ人は幸せと呼ぶのだから、あの世の入り口である死と、人をこの世にしがみつかせる幸せとが相容れないのは必然だと言える。幸せであれば死はとてつもない苦痛になり果てる。しかし逆に死を受け入れようとすれば、幸せとは無縁の人生を送らなければならない。人は死ぬまでその間を揺れ動くのではないだろうか。




幸せと死part2

幸せであることができるのは生きているうちだけであるし、死を受け入れようが受け入れまいが人はどうせ必ず死ぬ。だからせめて今のうちは自分自身が幸せであるように、自らの喜びや楽しさを追及していった方がいい、というのはとても納得のいく言説である。生きていることは当たり前ではない。それはほんの短いひと時に過ぎないのだから、その中でくらいは甘い心地よさに浸っていてもいいではないか。しかしこうも言えるはずである。人はどうせ必ず死ぬのだから、幸せであることには何の意味もない。浸るだけ浸っても待っているのは結局死であり、それに備えておかないのなら、死にきれない後悔でその一生を締めくくることになる。だから常に死を見つめ受け入れていくことが大事なのだ、と。




幸せと死と満足と幸福

幸せでありながら死を受け入れるということは不可能なのだろうか。いや、できると私は言いたい。ただそれには満足という概念が不可欠である。幸せに満足が加わると、それは幸福と呼ばれるものになる。幸せを生活条件や周りの環境やその他自分以外のものに見出すのではなく、自分が満足しているというそのことにおいて幸せを感じるのであるなら、それは端的にあの世にも持っていける幸福へと姿を変えるのである。




幸福と死

全てを自分の内に回収していく、死ぬまさにその瞬間まで幸せで満たされる人生を歩める唯一の方法である。この世に置いてある全てはあの世には持っていけない。自分と一緒に逝けるのは、自分の中にある感覚や知恵や考え方だけである。だから、それらを豊かにしていくことが、つまりは人生を豊かにすることなのである。幸福な生にとって死はもはや存在しないも同然だ。その都度その都度で満足している人生に死が何かの意味を持つことは有り得ない。常に自らにおいて既に完結されているからだ。そこに死がやってきても、蛇足になるだけで、もはや死が何を終わらせたのかさえ、全く不明になるのである。

自分で左右できないものに対しての二つの態度

祈りと覚悟

自分の人生において自分の力で左右できるものは本当に限られている。健康的な生活を送れば必ず健康な身体が維持されるなんてことはないのだし、死なないように細心の注意を払えば絶対に死ななくて済むなんてことも到底考えられない。どれだけ人事を尽くしても、その結果が自分の望まないものになることはやはり往々にしてある。そういった人の手ではどうにも左右できないものに対して、人は事前に二つの態度をとっておくことができる。即ち、最良の結果になると願いを込めて「祈ること」と、最悪な結果を想定して「覚悟すること」である。

 

 

バランスゲー

この二つはバランスがとても大事である。祈ることばかりに気を取られていては、現実を正しく見つめられなくなるし、覚悟ばかりに力を入れてしまうば、今度は現実に希望を見いだせなくなってしまう。いい結果になるように願うけれども、最悪を想定した自分の気持ちも用意しておく。そんな心と頭の分担作業が必要である。どちらかだけをやりすぎていないかと、定期的に意識して点検した方がいいと思う。人は都合の悪いことには目が向かなくなってしまいがちな生き物であるから、自らを意識的に律するのでなければ、簡単に都合のいい方だけに浸って落ち着いてしまうのである。

 

 

祈りと覚悟はどちらが最後か

祈ることは以前も書いたが、祈ったという事実をつくるためにこそ行われるものだ。祈る意味とは自分は全ての人事を尽くしたのだと証明するためなのである。一方で覚悟も同じである。覚悟も覚悟したという事実をつくるためにこそ行われるものだ。覚悟の意味も祈りと同じく、自分は人事を尽くしたのだと証明するためものだが、祈りの向く方向が「だからお願いします」と上であるのに対して、覚悟は「だからどうなってもいい」と下である。思うに人は覚悟をしてから祈りを捧げるべきなのだろうか、はたまた祈りを捧げてから祈りに対しても覚悟をしておくべきなのだろうか。個人的には後者である。気持ちは備えておくけど最後に希望を持つか、その希望をも含めて諦めた視点を持っておくかの違いだが、私は前者のそれは端的に覚悟が足りていないということなのではないかと思ってしまう。祈りもきちんと行うがそれも含めて覚悟をしておく、希望に対しても一歩引いて、そうならなくても構わない、もう気持ちは備えてあるとする方がなんだかかっこいいと感じるのである。

 

 

オチはテキトーです

いずれにしろまず大事であるのはやはり人事を尽くしておくことだ。その意味では祈りも覚悟も人事のうちにある。やるべきことをやったのに望む結果にならないのはおかしいと文句が出るのは、覚悟という人事を尽くしていなかったからで、ひょっとするとそれは祈りが足りていなかったせいかもしれない。

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私のとてもとてもくだらない夢のお話

今日は(も)くだらないです

とてもしょうもない記事を書きたい気分なので、ここら辺で私が長年抱き続けている超がつくほどのくだらない夢の話をしようと思う。もうかれこれ五年くらいは思っているのであるが、一度も成功したことがなく、成功させる目処も今のところ全く立てられていない。それは何かというと「眠る直前の自分の体勢を翌朝思い出すこと」と、「眠りから覚めた時まぶたを開かずに意識だけを覚醒させること」である。はい。超くだらない。そんなことをして何になるかは聞かないでください。私も知りません。ただできるようになったら、きっと私はとてつもない感動を覚えるに違いないのである。それだけははっきりしているのだ。

 

 

どう考えてもない

たぶん眠ることが大嫌いであるのと関係している。眠るギリギリまで覚えていたいし、起きた瞬間から身体を思いのままに動かしたいという欲望の現れなのだと思う。意識を手放すのがやはり癪と感じているのだろう。ところでまぶたを開けずに意識を覚醒させる方はまぁ無理ゲーだとしても、眠る直前の体勢を覚えておくくらいはできてもいいはずなんですけどね。なんせ眠るのが苦手でベッドの上でじっとするのが無理なので、決まった眠り姿勢を持てず、こちらも酷く難航しているのである。うん?この話需要ある?

 

 

一生のお願い一回だけでいいから

ここまで書いてしまったので、あるという前提で続けますが、本当にどうやったらこの夢は叶うのでしょう。死ぬまでに一回だけでいいから成功させてみたいものだ。眠ることの境界線ギリギリまで意識を持てるなんて、超かっこいい。厨二心が疼く疼く。いや本当にたまらんのに、現実的に叶えられる気が全くしない。いっそ部屋に監視カメラつけて、まぶたにガムテープでも貼っつけようかしら。完全にずるですけど。というか拉致監禁されたみたい。

 

 

おやすみなさい

ここ最近眠るのはますます苦手になり、毎朝の四時に寝て仕事に行き帰ってから二度寝するという生活になりつつある。しかし不思議なのだが、夕方に眠る方は夜(朝方)に比べてあまり苦にならない。どうやら私は眠るその行為自体というよりも、夜に眠るのが特に苦手であるらしい。どこかで「夜更かしをするのはその日に満足していないから」と読んだことがあるが、まさにこれかもしれないと反省した。およそ人生全体に満足した試しがない。小さな満足はあっても、今から死ぬのだとしたら、やはり色々やりきれないと思う、死にたくないと思う。しかし眠りはまだ待ってくれるが、死の方は少しも待ってはくれないのだと既にはっきり分かっているの、とても恐ろしいですね。早く寝よ。

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不幸を自分の人生の価値に変える

不幸は他人に気づかされる

衣食住が揃っているのなら、後の不幸とは大抵が社会的な、つまりは他人から気づかされるものである。どれだけ酷い仕打ちをうけていても、どれだけ毎日がしんどくても、それを当人が「普通」だと思っている限りは簡単に受け入れられる。そんな経験を少しもしたことがないという他人を目の前にして初めて、人は自らの惨めさを知り、不幸を自覚するに至るのである。一度不幸を自覚してしまえば、元には戻れない。知ってしまったのなら、それはもう必ず「対処すべき」事案に成り代わる。何も対処しないのなら自分は延々自分から責め続けられるだろう。しかし対処するのも、不幸なので当然多くの場合に困難を極める。その板挟みで当人はますます苦しくなっていく。

 

 

他人と比べて得た不幸を他人と比べてなくすことはできない

不幸は他人と比べるから生まれるとはよく言われることである。だがこれは人間である限り不可避な事態だろう。そもそも「自己」というものさえ、他人の写しに過ぎないのだから。不幸に気づいてしまうことは人間にとって免れない必然である。不幸に気づき、それを改善し、また新たな不幸が現れる。人類と不幸の終わらぬ追いかけっこの中で、一人一人が各自の人生を生きているのである。その追いかけっこの成果あって、人類全体としての生活や暮らしのレベルは確実に良くなってきたであろう。だがしかし個人にとってみれば不幸は端的な不幸でしかない。皮肉にも他人と比べて得たはずの不幸は、同じようにして他人と比べてもなくすことはできないのだ。自分より不幸(に思えるよう)な人と比べても、せいぜいよくて一瞬の気休めになるだけである。

 

 

自分の人生の価値に変える

この場合の不幸とはつまり不足なのだ。他人にはあるのに自分にはない。他人には幸せな家庭があるのに、端麗な容姿があるのに、裕福な環境があるのに、明晰な頭脳があるのに、私にはない。その不足分が自覚され、それが不幸の姿となって自分の人生に登場しているのである。さて、ではこの不足による不幸を一体どうすればいいのか。気づかされることは不可避で、対処すべきだと常々自分に迫られ、それでいて現実的に改善するのは大変に難しい。だとすると、もはやそれを「活かす」しかないのではないだろうか。なくすのが無理であるのなら、その不足の見方を変えて、どうにかこうにか別の意味を与えていくしかないであろう。他人と比べて足りていないということは、他の見方をすれば、それは自分の生の固有的な価値である。このブログは完全にそうしてできたものだ。ここに書かれている全ては、私の不足から生まれた。今ではもうすっかり宝物である。

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