底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

不幸を自分の人生の価値に変える

不幸は他人に気づかされる

衣食住が揃っているのなら、後の不幸とは大抵が社会的な、つまりは他人から気づかされるものである。どれだけ酷い仕打ちをうけていても、どれだけ毎日がしんどくても、それを当人が「普通」だと思っている限りは簡単に受け入れられる。そんな経験を少しもしたことがないという他人を目の前にして初めて、人は自らの惨めさを知り、不幸を自覚するに至るのである。一度不幸を自覚してしまえば、元には戻れない。知ってしまったのなら、それはもう必ず「対処すべき」事案に成り代わる。何も対処しないのなら自分は延々自分から責め続けられるだろう。しかし対処するのも、不幸なので当然多くの場合に困難を極める。その板挟みで当人はますます苦しくなっていく。

 

 

他人と比べて得た不幸を他人と比べてなくすことはできない

不幸は他人と比べるから生まれるとはよく言われることである。だがこれは人間である限り不可避な事態だろう。そもそも「自己」というものさえ、他人の写しに過ぎないのだから。不幸に気づいてしまうことは人間にとって免れない必然である。不幸に気づき、それを改善し、また新たな不幸が現れる。人類と不幸の終わらぬ追いかけっこの中で、一人一人が各自の人生を生きているのである。その追いかけっこの成果あって、人類全体としての生活や暮らしのレベルは確実に良くなってきたであろう。だがしかし個人にとってみれば不幸は端的な不幸でしかない。皮肉にも他人と比べて得たはずの不幸は、同じようにして他人と比べてもなくすことはできないのだ。自分より不幸(に思えるよう)な人と比べても、せいぜいよくて一瞬の気休めになるだけである。

 

 

自分の人生の価値に変える

この場合の不幸とはつまり不足なのだ。他人にはあるのに自分にはない。他人には幸せな家庭があるのに、端麗な容姿があるのに、裕福な環境があるのに、明晰な頭脳があるのに、私にはない。その不足分が自覚され、それが不幸の姿となって自分の人生に登場しているのである。さて、ではこの不足による不幸を一体どうすればいいのか。気づかされることは不可避で、対処すべきだと常々自分に迫られ、それでいて現実的に改善するのは大変に難しい。だとすると、もはやそれを「活かす」しかないのではないだろうか。なくすのが無理であるのなら、その不足の見方を変えて、どうにかこうにか別の意味を与えていくしかないであろう。他人と比べて足りていないということは、他の見方をすれば、それは自分の生の固有的な価値である。このブログは完全にそうしてできたものだ。ここに書かれている全ては、私の不足から生まれた。今ではもうすっかり宝物である。

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