底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

自分で左右できないものに対しての二つの態度

祈りと覚悟

自分の人生において自分の力で左右できるものは本当に限られている。健康的な生活を送れば必ず健康な身体が維持されるなんてことはないのだし、死なないように細心の注意を払えば絶対に死ななくて済むなんてことも到底考えられない。どれだけ人事を尽くしても、その結果が自分の望まないものになることはやはり往々にしてある。そういった人の手ではどうにも左右できないものに対して、人は事前に二つの態度をとっておくことができる。即ち、最良の結果になると願いを込めて「祈ること」と、最悪な結果を想定して「覚悟すること」である。

 

 

バランスゲー

この二つはバランスがとても大事である。祈ることばかりに気を取られていては、現実を正しく見つめられなくなるし、覚悟ばかりに力を入れてしまうば、今度は現実に希望を見いだせなくなってしまう。いい結果になるように願うけれども、最悪を想定した自分の気持ちも用意しておく。そんな心と頭の分担作業が必要である。どちらかだけをやりすぎていないかと、定期的に意識して点検した方がいいと思う。人は都合の悪いことには目が向かなくなってしまいがちな生き物であるから、自らを意識的に律するのでなければ、簡単に都合のいい方だけに浸って落ち着いてしまうのである。

 

 

祈りと覚悟はどちらが最後か

祈ることは以前も書いたが、祈ったという事実をつくるためにこそ行われるものだ。祈る意味とは自分は全ての人事を尽くしたのだと証明するためなのである。一方で覚悟も同じである。覚悟も覚悟したという事実をつくるためにこそ行われるものだ。覚悟の意味も祈りと同じく、自分は人事を尽くしたのだと証明するためものだが、祈りの向く方向が「だからお願いします」と上であるのに対して、覚悟は「だからどうなってもいい」と下である。思うに人は覚悟をしてから祈りを捧げるべきなのだろうか、はたまた祈りを捧げてから祈りに対しても覚悟をしておくべきなのだろうか。個人的には後者である。気持ちは備えておくけど最後に希望を持つか、その希望をも含めて諦めた視点を持っておくかの違いだが、私は前者のそれは端的に覚悟が足りていないということなのではないかと思ってしまう。祈りもきちんと行うがそれも含めて覚悟をしておく、希望に対しても一歩引いて、そうならなくても構わない、もう気持ちは備えてあるとする方がなんだかかっこいいと感じるのである。

 

 

オチはテキトーです

いずれにしろまず大事であるのはやはり人事を尽くしておくことだ。その意味では祈りも覚悟も人事のうちにある。やるべきことをやったのに望む結果にならないのはおかしいと文句が出るのは、覚悟という人事を尽くしていなかったからで、ひょっとするとそれは祈りが足りていなかったせいかもしれない。

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