底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

自分の特別を見失わない

1

私は自分にしかできないことがあると考える。もちろんそれは自分が選ばれた存在だとかそういうことではなくて、「人は誰しもその人にしかできないことがある」という意味で、純粋に自分もそのひとりだと思うだけである。誰しもその人にしかできないことがある。そういう意味で一人ひとりの人間は皆特別であるはずだ。だけれどもまさに皆が特別であるために、その特別さは安易に見過ごされ、簡単に見失われてしまう。結局、世の中に特別だと評価されなければ、或いは誰か他者にとっての特別でなければ、自分の特別さを見い出せなくなって、自分の存在意義に疑いを持ってしまう。

 

 

2

特別を辞書で引いてみる。出典によって多少の違いはあれど、概ねの意味は「他のものと違っていること」だ。これってつまり一人ひとりの人間は特別ってことですよね。この世に同じ人間はふたりといないのだから。しかし、その「違うさ」を同じだと人は見なしていく。みんながみんな違う人間であるのなら、みんなみんな同じように違う人間であるだけだ、というわけである。これは一面の真実である。だが、細かくみていくとやはりそうではないだろう。確かに大枠で見れば一人ひとりはただ違う人として同じように違うのかもしれないが、きちんと一つ一つ取り上げれば、みんな違う人なのだからやはり同じように違う人なんかいはしない。みんなの違いには全て差異があって、全てが特別なのである。

 

 

3

その細い差異を見逃していくことが人生を単調なものにしていく。自分にしかできないことは確かにあるはずなのに、その「自分にしかできなさ」は他人にとっても同じだとしか思えなくなり、それをする意義を根本から見失う。同じという前提に立って人と自分のしていることをついつい比べては優劣をつけて、優の側にしか価値がないのだと思い込む。きちんと見れば、違いはちゃんとあるのに、もうそこに目を向けることも叶わない。

 

 

4

世の中に特別だと評価される。それはつまり大衆から支持されるということである。誰か他者にとっての特別になる。それはつまり家族や友人の存在である。同じさに潰されないために、人はいつもそうして外的な存在に頼ってきた。外的な存在にその「違うさ」を認められてやっと、自分自身の存在意義を見い出してきた。けれども、本当は自分自身で見つけられるはずなのだ。外的な存在とは無関係にひとりでその特別を認めていけるはずである。だってみんなみんな同じように必ず差異を持つのだから。同じように特別で、特別でない人なんてひとりもいないのだから。あとはそこに目を向けて、きちんと見るだけなのである。

f:id:kabiru8731:20240517230302j:image