底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

人は必ず死にます

1

私は生きていたいと思う方である。本当に死にたくないなといつも思っているし、そう思う心があまりに大きすぎて、反動で死にたくなることもあるけれど、やはりは生きていることが根本から好きである。何かを感じ思い考えては日々が過ぎていく、そういう時間の流れがただただ愛おしい。けれども、じゃあそういう時間をできるだけ長く維持するべく長生きを目指そうと言われたならば、きっとなんのやる気も出ない。なぜなら、私は長生きがしたいのではなくて、ただ生きていたいだけだからだ。先のことよりも、この瞬間の生をまず何よりも愛しているのである。

 

 

2

死というのは常々人から悔やまれる。短い生は言わずもがな、どんなに長生きしたとしても、死んだならば、いつもそういう弔いの言葉で溢れかえる。「お悔やみ申し上げます」。まるでどんな死でも絶対に悔やまられなければいけないようである。この「お悔やみ」とはしかし一体なんなのだろうか。例えば、ある人が本当に本当に幸せで満足な一生を送ったとその最期の幕を閉じたとしても、やはりそれは悔やまれることなのだろうか。本人は何も悔しくないのに…?つまりはお悔やみとは死者の思いとは無関係に、周りの人の「もっと生きていて欲しかった」という思いに対するお悔やみなのでしょうけれども、それを死者を弔う式においてやっているのだとすれば、一体誰のための式なんだか分かりませんね。

 

 

3

どんなタイミングでどんな死に方が待っているにしろ、既に死ぬことは分かりきっているのだから、私は日々その死を覚悟し、その死を後悔しないためにこそ毎日を懸命に生きるだけである。だからどこで死が来てもどんな死に方だとしても、私にとっては同じだ。悔やまれることなんか一つもない。勝手に悔やまないでいただきたい。死人に口なしなので生きているうちに予め書いておきます。

 

 

4

生きていたいと思うことと長く生きていたいと思うことは全然違う。死が訪れると分かっている上で、私は今ある生を愛している。そりゃできることならば死にたくないですけど、そんなのは無理だって知っている。人の人生における長短なんてたかだか数十年の違いだ。永遠に生きられないのなら、そんな数十年なんて誤差である。もちろん長く生きられるのなら、それに越したことはない。でもそれは天に任せることなのだと思う。与えられた生がどのようなものでどんな長さだとしても、その中でいかに生きるか。自分が考えることはそれだけである。

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