底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

勉強ってなんの役にたつの?

勉強ってなんの役にたつの?

小学校から大学に至るまで私は真面目に勉強したことがない。テスト勉強はいつも前日から始めていたし、高校受験も大学受験も確約や指定校のシステムを使ってかいくぐった。私は勉強が大嫌いだったのである。子供の時誰しも一度は抱いたことのある「勉強ってなんの役に立つの?」という問の答えが、私にはさっぱり分からないのだ。もし大人になった今、どこかの子供にこの問をぶつけられたら、きっと私は「なんの役にも立たない」と答える。勉強してこなかった身がこんなこと言えるのかは微妙だが、少なくとも私には「うわぁもっと勉強しておけばよかった」と思うようなことが全然ないのである。

 

 

底辺でもよければね

ただ生きるだけなら勉強なんてほとんど必要ないであろう。社会は思っているより遥かに緩くて優しい、勉強なんて少しもしてこなかった人でも、選ばなければたいていは職にありつけるようにできている。私みたいなどうしようも無い奴でも今こうして働けているのだから間違いない。

 

 

哲学を勉強したことはない

私は今は哲学という学問が好きである。だが哲学を勉強したことは一度もない。だから哲学史なんてものは全然詳しくないし、知っている哲学者も両手で数える程しかいない。そんな奴が哲学好きを語るな!と言われそうだが、それなら私が好きなのは哲学とは別の「テツガク」ということにしておこう。私は興味のある本しか読まないし、興味のあることしか考えない。これを勉強と呼ぶ人はいないであろう。どうみても趣味を楽しんでいるだけである。

 

 

勉強は夢や目標がある人のためにある

勉強というのはなりたいもの、叶えたい夢がある人の為にある。なるまでに大変な道のりがあるような夢を持っている人は端的に勉強という努力をしなくてはいけないだろう。たとえその夢が学問に関係ないことでも、芸術やスポーツや他のことでも同じことである。どんな目標でもトライアルアンドエラーの積み重ねを必要とするはずだ。

 

 

生活条件の向上は価値ではない

自分の人生に理想形がない人には勉強は少しも必要ない。中学生まで勉強は義務としてしなければならないが、それ以降は端的に自由である。それでも多くの子供が「勉強はなんの役に立つの?」と問うのは、生活条件の向上それ自体がひとつの価値であるという雰囲気が社会全体に充満しているからである。子供にはそのことが理解できない、なぜ自分の生活条件を向上させなければいけないのか分からない。もちろんそれはまだ親の庇護下にあるから社会で生活する苦労がわからない、ということもあるだろう。しかし子供のこの直感はやはりとても鋭い。なぜなら大人は時として、生活条件はもう十分であるはずなのに、それでも他人の目を気にして向上を目指していることがあるからだ。他人に自分が幸せであると思って貰いたいが為にあくせくする滑稽さを子供は幼いながらに既に見抜いているのである。だからこそ「それはなんの役に立つの?」と大人に問うているのだ。

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