底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

私の書く自由と他人の読む自由について

さぁ

「私のブログなんだから、私の好きに書かせろ。」ブログの執筆中、いつもこんな声が私の脳裏で唱えられている。別に誰かに批判されたことなどないのだが、一体私は誰に向けて喋っているんだ?よく分からない。

 

 

このブログは誰のもの?

ブログは果たして私のものだろうか、それとも不特定多数の目に晒されるのだから、他人のものだろうか。私にはこのブログを好きに書く権利がある。その面では私のものと言えるかもしれない。しかし、他人には私のブログを読んで好きに評価や批判する権利がある。書くという部分だけで見ればブログは私のものだが、読む点も合わせて考えると、このブログは他人のものである、と言えなくもない。私は自己満足の為に書いているが、それでも私は私が読むために書いているのではない、一番の読み手は常に他人である。

 

 

私の書く自由

いくら好きに書いてもいいからといって、他人の個人情報を勝手に晒すなどの犯罪行為をしたり、特定の誰かを酷く不快にさせるようなことを書く権利までは、私にはない。当然である。私の好きに書いてもいいという権利は、あくまで他人の権利を侵害しないという大元の上に成り立っている。しかし、裏を返せば他人の権利さえ侵害しなければ、やっぱりあとは私の自由なのである。つまり、間違ったことを言ったり、論理が破綻したり、矛盾することを述べたり、書き方が紛らわしかったり、表現が下手くそだったりする自由は常に私に与えられているのだ。もちろんそれらはできれば直した方がいいものであるし、日々精進していきたいとも考えている。だが間違っていることを書く権利はやはりどこまでも認められているのである。間違いは正すべきだが、間違ったことを書いてはいけないという決まりはない。

 

 

他人の読む自由

私には私の自由があり、他人には他人の自由がある。私にはこのブログを好きに書く権利があり、他人にはそれを好きに読む権利がある。他人が私のブログをどんな風に批判や評価したとしても、法律内であれば他人の自由であり、どんな事が言われていようと、それは私の自由を侵害したことにはならない。たとえ「もう書くな下手くそ」と言われても、私にはそれに従うかどうかの自由が更に与えられている(心は折れるかもしれないが…)。

 

 

余計な心配しなくていいよ

頭の中で「好きに書かせろ」と唱えるのは、たぶんこの辺のことを恐れているからだと思う。自分の文章の下手くそ加減や矛盾や論理破綻に既に気づいていて、開き直ろうとしているのだろう。そんな必要はない、私の自由は「最初から」保証されている、誰にも私の書く権利を侵害することなんてできはしないのだから、大丈夫だぞ私。それに、そもそもこんな弱小ブログが言及される日なんてこないだろうし。

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