底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

夜な夜な考えた哲学の仕事についての文章(供養)

科学や物理は何を教えてくれる?

この世には不思議なことがいっぱい。これは科学や物理の謳い文句である。この世がある!ということに驚くというよりは、この世のそのあり方に驚く。どうして林檎は木から落ちるのか、どうして電車の中でジャンプしても壁にぶつからないのか、といったことを説明しようとして、重力やら慣性やらの用語をあてがう。ところがどうして重力はあるの?どうして慣性は働くの?といったことには答えてくれない。端的に「ある!」という驚くべき事実に対して科学はいつも口を噤む。噤むしかないのだ。科学の専売特許はあくまでこの世のあり方である。

 

 

神にすら答えられない

それ以上は哲学の仕事だ。しかし、哲学も「ある!」という事実に関してはその不思議さを説くだけで、肝心の「なぜ?」には絶対に答えをくれない。そりゃそーだ。そんなものは神にだって答えられない。世界は神が作ったとしても、じゃあその神自身は誰がつくった?更に上階の神か?じゃあその上階の神は?更に……。ということが繰り返されるだけで、永遠に「ある!」ということの「なぜ?」にはたどり着けない。この世はなぜだかある。それ以上のことは誰にも言えやしないのだ。

 

 

哲学の仕事はあの世を考えること

哲学の仕事は「ある!」の不思議を説くことではない。そうみえるものはあくまで結果的なものにすぎない。哲学の仕事とは実はあの世を考えることである。あの世とは何か?それはこの世を包含した「そうでしかありえない」世界のことである。物理法則がある日を境に突如変わり、林檎が横に飛んでいったり、人間が壁を歩けるようになったりすることを想像することは容易である。そのような世界が現実になるかどうかという問題ではなく、あくまで想像するだけなら誰にでもできるはずだ。しかし例えば、四角い三角を我々は想像できるだろうか?或いは140度の鋭角、或いは黒い白線、そういったものは想像さえできない。何故できないのかと言えば、我々の理解できる範疇では無いからだ。あの世を考えるということは即ち、我々を考えるということである。何を理解でき、何を理解できないのか。何を想像でき何を想像できないのか。何を言うことができ、何を言うことができないのか。理解出来た気になっているだけ、想像できた気になっているだけ、言えた気になっているだけ、そういったことは世の中にわんさかある。それをひとつひとつ紐解き、本当に理解出来ているのか?本当に想像できているのか?本当に言えているのか?と考えるのである。

 

 

哲学は世の中の役にはたたない

こんなことをしてもなんの役にもたたない。当たり前である。あの世を考える学問がこの世の役に立つようになったらいよいよ世界はおしまいである。

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