底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

哲学と両思いになれなかった話

哲学と両思いになれなかった

私は哲学が好きである。でも残念な事に哲学にはあまり好かれなかった。哲学という学問には明らかに才能がいる、それも普通の意味での、努力と対をなすような才能のことではない。この場合努力はすればする程空回りするだけである。哲学の才能とはすなわち驚きなのであって、それ以外の何ものでもない。つまり、何かに対して強烈に「なぜ!!」と感じられることである。驚きというのは努力でどうにかなるものではない。「驚け」なんて命令が成り立たないことからしてもそれは明白である。私は、私や世界や時間や言葉や善悪やその他もろもろの存在に対してあまり驚けなかった。それらを、普通で平凡でありきたりで当たり前としてしか捉えることができなかった。悲しいことだがこれが現実である。だから私は正当に哲学することは諦めた。才能がないのだから仕方がない、駄々を捏ねても何も始まらない。

 

 

私的邪道な哲学

私は邪道を進むことにした。この場合の正当な哲学が「自分の最初から持っているなぜを考え抜くこと」であるのに対して、邪道は「何が真に問うべきなぜであるのかを考え抜くこと」を意味する。驚きを持って世界を見ることができなかった私は、何が真に驚くべきことなのかを探求することでしか哲学に関わりを持てなかったのである。

 

 

そこだけは思考停止

しかし、「驚け」という命令が成り立たないのと同じで、「驚くべき」なんてことも成立しないのではないか?と私はすぐに思い至った。嬉しさを感じるべきとか、悲しさを感じるべきとか、そんなのがただの空論であるように、「驚くのに値するもの」も本当は存在しないのではないか、そんな考えが頭の片隅に浮かんだが、私はそこで思考をやめることにした。なぜなら、そんなのは存在しないと言われても、私にはもう他にどうすることも出来ないからである。才能がない私にとって、これが哲学をする最後の道なのである。それが幻想であろうとなんだろうと、もうやるしかないのだ。

 

 

一生片思いさせていただきます

哲学に関わらずして生きていけ、なんてどうか言わないで欲しい。哲学に見捨てられたくない。哲学に縋っていたい。哲学にこだわる理由は、突き詰めれば「好き」でしかないのだが、好きだからこそ私にとって、哲学は他の学問にない特別な意味を持つ。哲学だけが私に生きる意味をくれる、何が真に問うべき問題であるか、それを知るまで私は死んでは「いけない」のである。絶対的な哲学への片思いであるが、振り向いてくれなくても、哲学はその存在だけで既に私を救ってくれている。だから、自己満でもかまわない、哲学が私を求めていなくても私はそれを問い続ける。

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