底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

【今週のお題】どうして自由研究には哲学はあまり登場しないの?

お題毎回難しい

好きなアイスに続き、自由研究というお題にも大変困る。八月三十一日にありとあらゆる宿題を全て詰め込んでいた私のような人間には、当時研究した内容など少しも記憶に残っていない。私本当に研究してたっけ?それすら曖昧である。だから今回も例に漏れず、お題そのものの内容ではなく、それに関係する自身の思いや考えを書いていこうと思う。

 

 

どうして自由研究には哲学はあまり登場しないの?

まずは研究の意味について

けん‐きゅう〔‐キウ〕【研究】
[名](スル)物事を詳しく調べたり、深く考えたりして、事実や真理などを明らかにすること。また、その内容。「中世史を研究する」「対策を研究する」「研究者」「研究発表」

どうして、哲学や倫理について研究する自由研究は全然ないのだろうか。自由研究のほとんどが理科や科学の内容であるのはなぜなのか。上の研究の定義からすれば、哲学や倫理があってもいいはずだ。特に「深く考えたり」とか「事実や真理などを明らかにする」なんてのは思いっきり哲学の仕事であろう。人生や存在、精神や時間、善悪や道徳などは人々の関心にはないのだろうか。それともやはり、改めて考える必要も無いほどに「既に知っている」からなのか。

 

 

どうして自由研究はいつも理科ばかり取り上げられるの?

確かにそれらは自分の身近にあるし、それどころか自分の一部でさえある。だから知っていると思うのはある意味で当たり前のことである。しかしそれなら、なぜ理科はその主な研究対象になり得るのだろうか。植物や元素や物理法則なども改めて研究する必要がない程人々の身近にあるものであろう。それなのにそれらは盛んに研究のテーマとして取り上げられる。この違いはどこにあるのか、私的にはそれは「不思議」と思うかどうかではないか?と踏んでいる。植物に水を与えると育ったり、水は実はH2Oであったり、ものが落ちるのは重力があるから、といったことは不思議な事である、と思う人が多いから、それらはいつも自由研究の対象になってきたのであろう。

 

 

真に不思議なことは…

しかしなぜ多くの人々は水は実はH2Oであるということには驚くのに、水自体が「ある」ということの方にはあまり驚かないのだろう、ひいてはそれを「ある」と思う自身の存在、それこそが真に驚くべきものであるはずだ。自分の存在はなぜこうも人々には「当たり前」と思われているのだろう。「ある」というそれだけで不思議な事なのに、更には「自分」があるのだぞ!なんだそれ!?と私は声を大にして言いたい(言わないけど)。

 

 
戻りてぇな。若かったな。

せっかく「自由」研究という名前なのだから、自分の目で見えるものだけを範囲とするのではなく、まさに「その」目でみているが故に、見ることができない自分というものを私はとことん研究してみたい。学生に戻れるならね。

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(公開ミスにより再掲しました。すみません…)

今週のお題「自由研究」