底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

価値は自分の見方にかかっている

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物事の価値に公的な基準があったとしても、最終的には個人の思うところに委ねなければならないのが現実である。つまるところ、そのものにどれほどの価値が「実際に」あるのだとしても、見る人感じる人がそう見たり感じなかったのなら、少なくともその人にとっては価値があるものだとは言えない。しかし逆に言えばその人が見たり感じとったりするだけで、どんな物事にも価値はできていくということである。物事の見方一つが大きく人生を左右していくのだ。その意味でより多くの出来事に価値を見いだせるようになった方が生きる上で得になるのではないだろうか。




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今自分が価値がないと思っているものが、未来永劫もそうである可能性はとても低い。なぜならその価値は自分の見方に依存しているからだ。自分の見方が変われば簡単に物事の価値も変動するのである。自分の見方は環境や年齢や様々なものに影響されているので、全く固定的ではない。だから今自分が価値を感じられないからというそれだけで、そのものには価値がないのだと決めつけてしまうのは非常に勿体ないことだと言える。これから変わる可能性も大いに秘めているのである。




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およそどんな物事にも価値を絶対に見いだせる方法が一つだけある。それは「学ぶ」ことである。人生は常に経験したことのない新しい瞬間の連続である。今までの出来事とよく似たことは起きても、それはどこまでも似ているだけで完全に同じであるということはない。また仮に完全に同じなのだとしてもそれを「今」新たに経験しているのだから、やはり絶対に未知なる違いがそこにはある。学ぶ姿勢はその違いを楽しむ心をくれる。そしてそれは幸いにも自分が学びの姿勢を維持する限り、決して終わりを迎えることがないのだ。




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価値は能動的なところではそれを見出そうとする人の精神に宿るのである。諦めず物事を様々な角度から見つめたり、絶えず思考を繰り返してみたり、色々な可能性を検証したりするところに価値は生まれる。決して受動的に感じる価値だけが価値であるのではない。自分の力で価値を見つけていくことができるのだ。その力があれば川辺に落ちている石一つ、道端に生えている雑草一つさえ楽しめようになるに違いない。およそ人生がどんな状況であろうと、どんな物事を目の前にしていようと、価値を失うということがないのである。なぜなら、それは既に自分自身の生きる態度なのだから、受動的に与えられる全てにはもう依存的ではないのである。