底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

行き詰まった時は世界に教えを乞う

どうにかしたいと呟く時

何かをどうにかしたいと呟くのは、得てしてそのどうにかしたいものを簡単にはどうにかできない時である。簡単にどうにかできるのなら、ただ単にどうにかすればいいのだから、どうにかしたいと言葉にされる以前に既に行動に移しているはずである。どうにかしたいのに、どうにかする術がない。そういう時に人はため息をつきながら途方に暮れて「どうにかしたい」と呟くのだ。しかし、簡単にはできないと言っても、それは難しいだけで、完全にどうにかできないものでもやはりない。もしそうなら最初から諦めているはずであり、どうにかしたいと呟くにまでは至らないからである。つまりはどうにかできる可能性はあるけれど、その可能性が極めて低い、現実的にだいぶ厳しい、という時にこそ人はどうにかしたいと呟くのだ。

 

 

世界に教えを乞う

さてでは一体どうすればいいのだろう。諦めるに諦められないが、どうにかするのも現実的に厳しいものを前にした時、人はどういう姿勢でそれに臨むべきなのだろうか。一つの答えとして、個人的には世界に教えを乞うのが一番いいと思う。あくまで私の経験上だが、こういう場合はいくら自分で考えても埒が明かない。その物事に対する見方がもう自分の中で凝り固まっているからだ。だから別の視点が必要である。現実か本の向こうか何かの映像作品の中かは分からないが、とにかく自分の外に手がかりを求めるのが解決するのに有効的であると思う。

 

 

他人にも他人にしか見えないものがある

人は「自分の苦しみは自分にしか分からない」と考えがちである。この直感は正しい。自分の苦しみはその全てを経験してきた自分にしか分からないのはいわば当然である。そして、もちろん根本的にそれを解決できるのも自分しかいない。でもだからといって、他人の言葉は全て聞くに値いしないということはないのだと思う。自分には自分にしか見えないものがあるように、他人にも他人にしか見えないものがある。その各人独自の視点が大いに自分の助けになってくれる場合は多々あるのだ。

 

 

縁はそこら中に落ちている

何かの壁にぶつかった時は大抵自分の視野が狭まっているのである。どうにかしたいとどうにもできないに挟まれて息苦しい時は一度キッパリ自分では無理だ!と諦めて、できるのなら放置をしておく。そうしてしばらくするとふとした瞬間に、他人の一言が、本に書いてある一文が、どうてことないセリフの一つが、突然自分の抱えていた苦しみに光を差してくれたりするのである。不思議としか言いようがないのだけど、きっとこれが縁の力なのだろうと思う。

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