底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

なんだかんだで書き続けるよという話

問うてはいけない

文章を書いていて一番問うてはいけないもの、それは「こんなん書いて何になるんだよ」だと思う。書く楽しさや面白さを失った時に問いがちであるが、本当にやってはいけないと思う。だって答えなんてないんですもの。何にもならないのはもう決まり切っているんですもの。どんなにいいものを書いても私は死ぬし、どんなにいいものを書いても人生が無意味なのは決して変わらない。今の自分が満足するため以外の意味なんか書くことに求めてはいけない。求めてしまえば、たちまち出口のないトンネルに入りこむことになるからである。




生きているから

人間存在の面白いところだが、時に何にもならないと知りながら、そして今の自分の満足すら満たせないことでも、人はある行為をすることができる。つまり「よさ」のためにやるのではないという状況がありえるのである。それをやらないことが想像できない。やらないとはどういうことなのかがもはや分からない、だからやる。なんのためにでもなく、なんの理由もない。ただやるしかないからやる。俗にこれは習慣とかルーティンとか呼ばれている類のものであろう。なぜそれをするのかって?それは生きているからさ。



なぜでしょうね

ブログを始めた時に既に分かっていたことであるのに、問わずにはいられない。私はそういう愚かしい生き物らしい。人生に納得する理由なんかあるわけがないのに、もがかずには居られない。どうしてでしょうね。もがくにしても、もう少し賢いやり方を覚えてもらいたいもんだ。それにしても、毎日千字のくだらない記事を書くだけで人生を変えられるとか期待するなら、それはそれでなんか馬鹿みたいですね。全くやる気もない明確な目的もないこんなブログに意味がある方が驚きというものである。自分はこのブログ結構すきですけどね。私が私であるというその理由によって。



これからもマイペースに頑張ります

たぶんブログを始めた時の私は焦っていたのだと思う。あぁ今にでも死んでしまうかもしれない。何かをしなければ!そうして生まれたのがこのブログなのだろうな。あんまり覚えてないけど。死んだら死ぬだけなのに、当時の私は何を思い違えていたのか。まさか、何かを残せば生きている意味があったなと言えるとでも思っていたのだろうか。いやー恥ずかしいですね。まぁでもおかげでこのブログが生まれたのだから、私は過去の自分に感謝すべきなのかもしれない。こんな書いても何にもならないものでも、私にとっては素直に愛せるものであるのだから。ありがとうな、過去の私。なんとしても書き続けるよ。

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