底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

祈りの意味は祈ることの内にある

祈りとは何か

祈りとはつまり何なのか。言葉で説明するのは難しい。でも、誰でも人生で一度くらいは祈ったことがきっとある。漏れそうなのにトイレが見つからない時、好きな子と初デートをする前日、試験の合格発表を捲る瞬間。本当頼む。そう心で唱えた経験は誰にでもあるはずだ。祈ることで何かが得られるわけではない、しかしもうそれしか頼みの綱がない。そういう時人は祈るのであろう。お願いします、何でもします、だから今だけはこの願いを聞き届けて。どうか人前で漏らすのだけは。どうか明日のデートが成功するように。どうかこの試験は合格であれ。本当なんでもするから。いやしないかもだけど。まじそれでも頼むよ。




祈りの意味は祈ることの内にある

祈りが何かの物理現象を引き起こすことは不可能だ。現代を生きる我々にとってそれは既に常識である。祈った結果何かが上手く行ったのだとしても、そんなのはたまたまの偶然であると人はよく知っている。しかしそれでも人は祈る。角張った形式はなくとも、心の中で祈りを捧げている。ピンチの時だけだとしても、祈っているということには変わりない。何の意味もないと知っているのに、なぜ未だ人は祈るのか。その答えは祈ることそれ自体が一つの意味を成しているからである。




祈りは隙間を埋める

祈らなかった場合を考えてみよう。祈るかどうかを迷った挙句、結果祈らずに悪いことが起きてしまった。そんな時人は自責の念から逃れられるだろうか。祈らなかったせいだ。そう思わないでいられるだろうか。私には無理である。祈っていたとしてもきっと事態は変わらなかった、そんなことは百も承知であるけれど、気持ち的に納得するのはやはり困難を極める。祈っておけばよかった。祈りとはつまりそう思うことがないように、自分の気持ちの隙間を埋めるために為される行いなのである。




自分のために祈る

祈れば祈ったことになる。それが祈りの唯一にして絶対的な意味である。人は祈るかどうかを決められる。外側の物理現象とは一切の因果関係がなくとも、人の心には祈りの因果が存在する。祈らなければ、祈らなかったという結果を引き起こす。物事が悪い結末を迎えれば、それだけのことでも、十分人の心に影を落とすことができる。あぁ祈っておけばよかったと、何の意味もないような後悔にずっと苛まれてしまうのである。そうならないためにこそ人は祈る。祈ることは完全に自分のためである。それは自分にできることは全部したとする最後の証明のようなものなのだ。祈りを捧げたという事実を作るために、祈っておけばよかったという後悔をしないために、人は祈りを捧げるのである。(何に?)