底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

世界で自分にしかできないこと

個性が光る場所

誰にでもできることが好きだ。人間であるなら誰にでもできることをするのが大好きだ。仕事もそういう仕事が好きだし、私が生きる上で行っている考えると書くもこれに当てはまる。誰にでもできるからこそ、それをすることで私の個性が光る。最初から人を選ぶもの、屈強な身体とか美しい容姿とか賢い頭脳とか器用な手先とかを必要とすることは、当然ながらその特定の性質によって選ばれる。つまりその性質を持つ人なら誰でも代替可能であり、その性質においてより優れた人が現れたのならば、必然的に自分は淘汰される。だが誰にでもできることならば、定義からして「人間である」以外の如何なる性質も必要としない。だからこそ、そこは最も個性が光る場所となり得るのである。




同じだからこそ違いが生まれる

個性というのはそれ単体であるかないかが決まるのではない。「個性が強い」なんて言葉があったりするのだから、それは周りとの比較によって「違い」を見出されて初めてある人の個性となり得るのだ。「誰でも人間である」というような「みんなが同じである」前提があってこそ違いを比較でき、そこから各人の個性が生まれるのである。もし最初から何もかもが違う人がいるなら、例えば手で歩いたり角が生えてたりする人がいれば、それは異質とされるだけで個性とは認められないだろう。個性には土台が同じであるということがとても大切なのである。




思うと考える

人間において誰にでもできること、或いは誰でもしていることの最上は「思う」と「考える」であろう。だから、私はそれらを書き記す。思いや考えこそがその人をその人たらしめる核であり、誰もその人の代わりに、思ったり考えたりすることは絶対にできない。誰でもしているけど、他でもない自分がやったらどうなるのだろう。個性はそういうワクワクをもたらしてくれるのである。月並みな表現であるが、個性とはわざわざ出すものではない。それは自然に溢れるものであり、むしろ溢れて出てくるものだけを個性と呼ぶべきである。




世界で自分にしかできないこと

世界において自分にしかできないこととは、思うや考えるのような誰にでもできることを、自分というもので懸命に経験し尽くし、限界までその個性を絞り、結果溢れ出たゴミしかり結晶しかりを、何かしらの形で残すことだけなのである。それ以外の全てのことは自分以外の人にも行える。自分以外の人に取って代わられるような可能性のあることをするのは、世の中のためになるかもしれない、周りの人を喜ばせるかもしれない。だが、そのことによって自分固有の生の意味は失われてしまうだろう。

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