底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

理由は気にせずしたいことはただすればいい

したいの理由

つまるところ「したいこと」の理由はどの程度求めるべきなのだろうか。したいことに対して「なぜ」と真剣に問えばおよそキリがない。問題はどこで自分が納得するかということにならざるを得ないからである。熱量を持って問えば問うほど、どんな答えにも「本当に?」と疑いたくなり、それに「本当だ」と応じてくれるような声にさえ更に「本当に?」と考えてしまう。問うことが全く無意味だとは思わないが、きっぱりと結論を出すのは至難の業と言えよう。




したいの理由は他人のためにある

自分が存在することには当たり前であるが、理由は存在しない。私は突如としてただ存在したわけだから、本当は人生の一切にも理由などないのかもしれない。したいことなら尚更だ。したいとは私のあり方そのもので、それこそ「ただしたい」と言うべきものなのではないか。しかしなぜだろう。どうしてもそれだけで片付けてはいけないような気がする。誰かに「なぜ」と問われたら、なんとなくその理由を用意しないといけないと思う。なんとなく「したいから」とだけ言うのは違うなと感じる。他人に納得されたいからなのかもしれない。他人に理解されたい他人に認めてもらいたい。だからついつい理由を考えてしまう。




人それぞれで全然違う

世の中の人というのは姿形はほぼ自分と変わらない。そのために、人は基本は皆同じだと考えがちになる。同じであるのが普通で、違うことには理由があると安易に思ってしまう。だから「皆はそれをしたくならないのに、どうして私はそれをしたくなるのだろう」なんていう見方をするようになる。姿形は同じでも中身は全然違うのだという可能性をいつのまにか捨てていて、違うのはどちらかに何かしらの理由があるはずだという考えの元に判断を下してしまう。




頼むよ

誰かのしたいには理由があって、誰かのしたいには理由がない。誰かのしたいは多くの人と同じで、誰かのしたいは世界でひとりだけである。自分のしたいに理由があるかどうか、他人と違うかどうか、それらはさして重要なことではない。重要なのはもちろんしたいことをすることである。理由があろうとなかろうと、したいことである限りそれはしたいことなのだから、つまりはしなければ後悔することであり、したら自分が喜ぶことに決まっているのだから、ただそれが叶うように努めればいいのである。いいですか。私、あなたに言っているのですよ。毎度毎度書くことに縋るためにこんな記事を書かせやがって。いい加減にしろ。記録だから多少は仕方ないけれど、もう少し単純に書いていて胸踊るような記事も用意してくれ。頼むよ。

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