底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

普通と変

普通と変

世の中には普通の人と変な人がいるのではない。どんな人でも近づいてよくよく見ると、変に思えるポイントが出てきて、遠ざかっていけばいくほど普通に見えてくるだけである。それは見る距離と見る時間の長さによって大きく変わることであって、見られている対象の方に何か決定的な違いがあるのではない。それを勘違いしてはいけない。そもそも普通なものは普通であるだけだし、変であるものは変であるだけに過ぎない。そこに優劣はない。ただ多数派が普通と呼ばれ、少数派が変と呼ばれるに過ぎない。変だからそれを矯正し、普通に合わせなければいけないということはないし、普通だから正しくて、そこからはみ出さないようにしなくてはいけない、なんてこともない。

 

 

違いに理由はない

自分の自己愛に近い部分、自分がアイデンティティにしているような部分が少数派であったり、自分一人であったりすると、人は「どうして他人はそうではないのか」「どうして自分ばかりがこうであるのか」という問を抱きやすい。けれどもそこには別に理由などない。ただそうあるものはそうあり、こうあるものはこうあるだけである。理由があるから違うのではなく、元から違う人間なのだから、違っているのがそもそも当たり前なのである。

 

 

視点のせい

自分のことはよく見えて長く見ているから、どうしても変に思える部分は多い。それはやはり距離と時間の問題である。他人を普通に思うのは自分より、遠くかつ短い時間しか見ていないからだ。真実をきちんと見極めるためには、視点の偏りを想像力で補正してあげる必要がある。

 

 

その方が便利なだけ

ある程度の前提が皆の共通認識としてあった方が社会は円滑に進む。それは時に偏見と呼ばれるようなものだが、もしそれがなければ、人はいちいち全てを確認しなければいけなくなる。「普通はこう」という基準があった方が、往々にして便利なのである。だから便利のために皆が皆、表向きにはそれに合わせている。無駄に変であると人に思わせてもメリットがないから。それが普通の人がより多く見えてしまうからくりである。

 

 

みんな違ってみんなどこか変

普通でいれば安心安全幸福でいられるなどというのはただの幻想だ。そもそもそんな普通は存在すらしていない。存在しているように見えるだけで、近づいてみれば、誰一人として普通の人間には見えないし、遠ざかって見れば誰だってただの人間にしか見えなくなる。普通は正義ではない。変は悪ではない。普通な人がいるのでも、変な人がいるのでもない。社会の構造上、正義に感じてしまうこと、悪に解釈してしまうことがあり、視点の構造上、普通に見えるような人、変に見えるような人がいるだけである。

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