底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

認識の正しさ〜本来VS多数〜

認識の正

認識においての正とはなんだろうか。それはそのものの「本来」を見るということであろう。本来を見ているのなら正、本来とは違う見方をしたのなら誤である。しかし、「本来」とは何によって本来なのだろうか。その明確な基準を人は未だに持っていないのだと思う。人は認識を超えられないのだから当然と言えば当然である。認識の外側に出て、認識自体の正誤を判定してくれる何かしらのものが仮にあったとしても、我々はその正誤を認識によって捉えなきゃならない。我々は完全に認識の枠内に囚われているのである。




一般人は生活をするのに大忙しなんだから

だから認識の正誤は常に内側から判定されねばならない。例えば見ると触るの二つのルートから確かめたり、離れたり近づいたり、時間をおいたり、何かを加えたり減らしたり、同種の違う個体も観察してみたり、他の人にも見て貰ったり、とにかく思いつける全ての不確定要素を取り除くことでしか、認識の正に近づく方法はない。...ないのだけど、こんなことをしているのは普通どこぞの科学者だけである。一般人はそんなことはしない。なぜなら一般人にとって認識とは生活するのに必要なものでしかなく、それ故に問題なく生活が送れるのなら認識が本来であろうがなかろうが、そんなのはどうでもいいからである。




共通認識はすごい

生活とは他人と暮らしを共にしていくことである。そのために日常においての認識は本来であるかどうかよりも多数と同じであるかどうかが重要となる。多数と同じであれば生活がより円滑により有利に送れるのは自明なことである。ところで人間は物理的なもの以外に概念的な目に見えないようなものも認識することができる。それらの存在は物理的なものとは違って実体がないので、その存在がしっかり存在しているということは多くの人の共通認識によってでしか担保され得ない。誰も認識していなければ当然存在してはいないし、ひとりあるいは少数のみが認識している存在は、一般に幻想や思い込みなどと呼ばれている。つまり、なんとここには「多数がそのように認識している=それが正しい認識」という等式が成り立っているのである!!




多数と本来は人間的には引き分けかな

認識には二種類の正しさがあるのだ。そのものの本来を見ることと、多数と同じように認識すること、そのどちらも正しいのである。ただこの二つは現実においてよく衝突を引き起こす。この時どちらがより正しいのか、それを決める手立てを人は持っていない。なぜなら、ある意味で多数とは本来であり、本来とは多数であるからだ。我々は認識の枠からは出られない。それがそのものの本来であるかどうかは誰にもどうしたって知り得ないのである。だからこそ多数の認識が存在のあり方を決めてしまうこともある。決まってしまえば、もう「それが」本来である。人間にとって本来と多数は区別も甲乙もつけがたい存在なのである。