底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

この世には役に立つ無駄がある

美味しかった

少しばかりの贅沢をする。いつもはお高いと思ってスルーしているお刺身のコーナーに立ち寄って、自分の食べたいのを一つだけ選んで買い物カゴにぶち込む。スーパーからルンルンで帰宅し、ルンルンでご飯をよそって、お刺身のパックを開け、わさびとお醤油を準備する。一切れ一切れをよーく味わって食べて、食後もその余韻を散々楽しむ。この一連の行為はただ自分を幸せにする。それ以外には何の意味もない。必要性から言っても別に全く必要ではない。今日も今日とていつも通りの食事をしても全然良かった。むしろ贅沢した分お金がかかっているから、必要ではないどころか、浪費や無駄とさえ言えるかもしれない。だが人生にはまさにそういう時間が「必要」ではないだろうか。




役に立つ無駄がある

必要には二段階あると思う。物事を構築するパーツとしての必要と、物事が切羽詰まらないようにするためのゆとりとしての必要である。パーツが十分に揃っていても、ゆとりがなければ物事が上手く進むのは難しい。人には必ず予想外のことがあるし、必要分しかないというその事実が既に人を焦らせてしまう。失敗できないとのプレッシャーになったり、万が一に怯えたりして、かえって物事をうまく進められなくなるのである。本当に必要になるのはいつも必要よりちょっと多めなのだ。物事が問題なく正常に進んでいる間はそのちょっと多めは無駄にしか映らないが、そのちょっと多めがあるからこそ物事は問題なく正常に進んでいるのである。この世には無駄でない無駄があるということだ。役に立つ無駄が存在するのである。




自分に合った贅沢をね

無駄であるそのことに意味がある。無駄とはつまり役に立たないことを意味するが、人にとっては役に立たないからこそ役に立つということがあるのだ。ただあるだけでいい、存在そのものがそこにあるだけで救いだ、と言えるようなものは得てして無駄なのである。その無駄さ加減に救われるのだ。なぜなら人生そのもの、いや存在の全てが最初から無駄であるからだ。何もかも存在することに意味はない。宇宙など端的になくても良かったはずなのだ。しかし現になぜか存在している。その間を埋められるロジックを我々は永遠に持つことができない。いつまでも、無駄なのに存在している存在なのである。だから時々は無駄な自分に立ち返る必要がある。その時間こそが自分のゆとりを作り上げるのである。人生には、ただただうめぇぇえと思いながら、ウッキウキで刺身を頬張る瞬間が絶対に必要なのだ。絶対に…。ただ私が食べたいだけともいう。