底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

戦いと棲み分けの末

1

私は常々他人を尊重したいと考えている。それは尊重できた方が自分にとって気持ちが良いからだ。尊重しないことは、ただその分の己の小ささを痛感するだけであって、個人的にはメリットが存在しない。だから、他人がどんな性質や特徴を持っていたとしても、それに関わらず、一様に尊重したいと心では思っている。だけど、それは言わずもがなとても難しいことであり、私は二十六年生きてきた今の今まで、一度も成功したことはない。難しくさせている最大の要因は、私が「そうあるべきだ!」と思うようなことでさえ、なぜなのかは不明だけれど、他人はそれとは全く違う行動基準や価値観を持っているからだ。その「なぜなのか」が一向に分からないので、私はそこに二つの仮説を立てた。一つは他人にある何かが自分にはない(或いはその逆)故に違ってしまう。二つ目は自分と他人とはそもそもが全く異質な存在だから違ってしまう。しかし、どちらの仮説をとるにしても、そこに尊重の道は開かれない。

 

 

2

「べき」というのは排他的なのであって、それと矛盾するような言説は決して受け入れられない。受け入れられないからこそ、「べき」と主張するのだからこれは当然であろう。だから、現に自分が思う「べき」とは矛盾する他人の言説を受け入れ、それを尊重しようと思っても、そのままには無理なので、お互いの言説同士を一つに決するまで徹底的に戦わせるか、逆に金輪際その話題を出さないことで言説の棲み分けをしていく他にない。前者はお互いに同じ世界を見ていると信じている。或いは見ようとしているという意味で相手を尊重している。つまり「他人にある何かが自分にはない(或いはその逆)故に違って」いるだけであって、本来は同じなのだと捉えているのである。後者はお互いに全く違う世界を見ているのだと信じている。或いは見ようとしているという意味で相手を尊重している。即ち「自分と他人とはそもそもが全く異質な存在だから違って」いて、時たま似たようなところはあるにしても、根本はやはり違うのだと捉えているのである。

 

 

3

しかし、戦うと棲み分けはもちろん厳密な意味では結局どちらも尊重とは言えない。それはやはり、ただの戦いと棲み分けである。厳密な尊重とは、自分のべきと違っていても一向に構わない、それがその人の形なのだからと認め、共存していけることである。私は世界はそうある「べき」だと思う。そして、そのためには、皆が「皆はそれぞれ全く異質な存在なのだ」と「同じようにして」認めるような世界でなくてはならない。

f:id:kabiru8731:20230218225409j:image