底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

真剣さは遊びとセットであった方がいい

真剣も時には考えもの

真剣に生きていくこと、それは偏に素晴らしい。自分の人生に対してただひたむきに向き合っていくのはどう考えてもよいことである。だが時として、それはどうしようもない種類の生き苦しさを生む。真剣に生き過ぎたために、熱意が有り余って、他人との争いが頻発したり、自己嫌悪などにどっぷり浸かることになってしまうのである。その意味で真剣さを完全によいことだと肯定するのは難しい。少なくとも身の丈に合っていない真剣さは偏に余計なものでしかないだろう。人生には真剣さにブレーキをかけられるようなものが必要なのだと思う。

 

 

精神的な態度としての遊び

真剣さにブレーキをかけられるもの、それはもちろん遊びである。遊びがあればこそ人生にはゆとりが生まれる。ここでの遊びは何か具体的なイベントや行為を言っているのではない。精神的な態度のことだ。目の前の物事に対してどこか一歩引いた目線で、周囲の環境や自分自身も合わせて俯瞰できるところに立っている状態が、即ち精神に遊びがあるというそのことである。そこに立てば自分自身を含めた全てを面白おかしく捉えられる、まるで本当にテレビゲームをプレイするかのように。普段のテレビゲームが面白い所以は、まさに自分自身だけはゲームの外にいて、その全てを見渡せるからだろう。

 

 

バランスが大事

真剣さと遊びのバランスを上手くとっていかなければならない。真剣さだけだと突っ走ってしまうし、遊びだけだと、それはそれで今度は味気のない人生になってしまう。真剣に遊んだり、真剣を遊んだり、常にどちらも兼ね備えてこそ人生は面白い。つまりは真剣さを自分でコントロールできるようになることが大事なのである。自分の使いたい所に適切な量をぶつけることで、真剣さはやっと本来の輝きを放つのだ。そのために精神に遊びが必要なのである。

 

 

全てを六日で創って、七日目にはお休みしてたらしいですからね

目の前には何があって、周りはどんな状況で、自分は何をしようとしていて、どうしてそうしようと思ったのか、果たしてそうするのが適切なのか、もっと上手い攻略法があるのではないか。真剣の使い所は本当にここでいいのか、別に大したことじゃなくない?ここで真剣になっても意味なくない?その量の真剣さは本末転倒じゃない?精神に遊びがあれば、本当にたくさんのことを考えられる。人の真剣さには限りがある。それは自分の人生を面白くしてくれるとても大切な力だ。自分にとって捧げる価値のあるものに、効果のある使い方をしていくべきなのである。大丈夫、この世は案外真剣にならなくてもいいことで溢れかえっている。だって、この世そのものですら神様が遊びでつくったようなものでしょう。

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