底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

手が届く範囲のものだけを見る

関係における客観と主観

世界のほとんどのことは自分と関係がない。自分ひとりが関わっているものなんて世界にとってみれば本当に限られた微小な範囲である。だがこれは客観的な話に過ぎない。主観的に見れば、見えている世界の全てが自分を起点に開けている。それはつまり、見えている限りの全てのものに自分が関係しているということ。人は常にこの二面の真実を生きている。テレビに映る全く自分とは無関係に思えるニュースも、見てしまった時点で自分との繋がりが生まれている。その証拠に人はほんの一時だけとは言え、そのことに関心や同情を寄せたりするのである。




辛い

主観的には関係があるのに、客観的には関係がない。このギャップは意外に深刻なものである。何かしたいという気持ちは掻き立てられるけれど、直接的には無関係であるがために、それに対して行う全てが軽薄なものにならざるを得ない。とても辛いことである。直接には関係のない他人が当事者のために何かできると思うのは、時にただの傲慢であるが、しかしとにかくこちらとしては見てしまった自分の罪悪感を消したい、見えている世界を綺麗にしたい。そんな動機で何かをして当事者がたまたま結果的に救われたとしても、そこにはやはり浅ましさが残る。手の届かないものを正当な理由で助けることは決して叶わないのである。




同じにしていく

客観的に関係するものと主観的に関係するもの、それらを同じ内容にしていくことが大事なのだと思う。客観に合わせる形で主観の方を削っていく。分相応の現実しか見ないことで「何かしてあげたい」と「何をすべきか」がピッタリ合致するので、義務に基づいてそれを行うことができる。何かしてあげたいという気持ちだけが独り歩きすることはなくなり、余計な情念も抱かなくて済むようになる。




小ささをちゃんと自覚する

見えているもの全てを「よい」ものにする力は人間にはないのだ。とても当たり前のことなのだけど、人は意外にもそれを自覚していない。全く力が及ばないことにも、いちいち罪悪感を覚え、いちいち同情し、知らなかったとでも言いたげに、今更自分の小ささや無力感に絶望したりするのである。一人の人間としてできることは限られている。より自分に近い現実からその力を使っていくべきだ。 見えているだけのものよりも、まずはしっかり両手の届く範囲で。客観的な自分を自覚していくことはとても惨めであるが、それはしっかりと現実を見つめていく行為なのである。直接には関係のないもの、手の届かないものには手を伸ばそうとしない。その選択はある意味でとてつもなく冷徹であるが、他の意味ではそれ以上ないくらい暖かく堅実な生き方なのである。