底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

二つの責任について

責任とは

責任という概念について考える。生まれる以前に生まれるかどうかを選べず、どんな身体でどんな性質を持った人間に生まれるのかも、どんな国でどんな家庭に生まれるのかさえ選べなかった一人の人にとって責任とは果たして何を指すのだろうか。机上の空論で最も責任という言葉の意味に忠実なあり方を考えるのなら、その人がきっちり自分の意志で選択したことにのみ責任を負わせるべきであろう。それ以外には「そうしないこともできた」と言える余地はないのだから、責任が生まれるはずもない。だが、現実はそうではなっていない。なぜならそれでは社会が大いに困るからである。

 

 

ミスはなぜ本人の責任

例えば「ミス」というのはどうして本人の責任なのだろうか。ミスはミスなのだから定義によってわざとミスをするというようなことは有り得ない。ミスが故意によるものではないことは自明であるのにも関わらず、やはりそれをしてしまった人が責任を負わなくてはいけない。なぜなら、現実においてはその人「よりも」責任を負うべき適任がいないからだ。その人はいわば社会を円滑にするため、消去法で責任をとらされているのである。だから本人が「そうしないこともできた」かどうかなどはもはやここでは関係なく、ただ一方的に「そうしないこともできたはずだ」と投げかけられる。

 

 

二つの責任

言葉の定義的には自分の意志で行った行為のみが責任の範囲だが、社会的には自分以上の適任がいない時にも負わされる。この責任の二つの形式はきちんと区別されるべきである。後者はあくまで社会からの要請であって、「本来は」自分に帰属するものではないと知らないと、多くの場合に生きるのがとても大変になる。余計な自己嫌悪を抱えたり、必要以上に重く受け止めたり。また他人に対しても、そうしないことができたかどうかという観点を経由せずに、ただただ責任だけを無理強いしてしまうようになる恐れがある。

 

 

自分の意志で決められることは絶対どこかにはある

自分の意志で何かを選ぶ。それは言葉でいうほど簡単ではない。少なくとも日常におけるほとんどのことは自分の意志で決められてはいない。ただ生きるという流れに乗っていたり、物事に反応的に動いているに過ぎない。意志で決めるとは、いくつもの選択肢を様々な角度から比較吟味し、最終的にその中から明確な基準を持って一つを選ぶことなのだ。自分自身が本当の意味で責任を持つべきなのは、この選択の結果だけである。社会から要請された責任は所詮生きやすさのためにある。誰でもそうして責任を引き受けてくれた方が当然社会は円滑に進むであろう。だが大切なのはやはり自分自身の人生を己の意志によって引き受けていく方の責任だ。それをあまり怠ってはいけないと思う。でなければ死ぬ時、後悔必至である。

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