底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

自分に関する認識の第一決定権は自分にはない

自分に関する認識の第一決定権は自分にはない

本人に関する認識は全て本人に第一決定権がある、は個人の立場で言えば理想的だが、現実問題そうはいかない。例えば自分はただ手を拳の形にして勢いよく伸ばしただけで、たまたま目の前に人がいたから結果的にその人を殴ったことになった、なんていうのは普通、通じないだろう。たとえ本当にそうだったとしても、目の前をよく確認もせずに拳を伸ばしたことはやはり本人の責任とされなければならない。傷つける意志があったかどうかとは無関係に、客観的な状況によってその加害性が決定されるのである。本人が自分に関することをそうだと言えばそうなるというほど現実は甘くない。




事実と納得感が真実をつくる

現実において認識の第一決定権は多くの場合に人々の納得感と事実の間に預けられている。たとえ本当にそれが事実でも、あまりに納得感から乖離しているときには、納得感にも叶うような「真実」がそこに組み立てられる。或いは逆にどれだけ納得感があろうとも、それが事実からあまりに乖離している場合も同様に事実の要素をきちんと加味した「真実」が立ち上げられる。当事者の自身に関する認識というのはそこでは一つの資料として参考程度に留まるのである。




本人に第一決定権を明け渡すと

本人に認識の第一決定権を明け渡すととりわけ二つの問題が生じることになる。一つ目は冒頭に書いたもので、つまりはたとえ本人がどれだけその「つもり」なくした行為であっても、結果的に他の人が損害を被ることがあるが、その責任を追及できなくなるということ。二つ目は本人は虚偽の自己認識を申告できるということだ。意志や思いや他様々な本人に纏わることを本人自身が言ったものが全てとするならば、他人はそれを嘘だと指摘する権利をなくし、どんな内容であっても真実として認めざるを得なくなってしまう。つまりは二つとも何が問題なのかと言えば、それでは社会が立ち行かなくなるのである。




決定権は勝ち取るもの

自己認識はどこまでいっても自己認識であらねばならない。それはただ自分が認識している自分というだけで、そこに「正しい」とか「絶対的だ」のような価値を潜り込ませてはいけない。あくまで事実と納得感のバランスに基づいて、自己認識は一つの判断材料として置くのが適切である。自己認識も他人の自分に関する認識も同等の位にある。他人が認識している自分だって立派に自分自身の欠片なのである。それに自分の認識している自分の方が自分の真実に近いということも別にない。外から見た自分の方が案外自分の核を映し出しているなんてのはよくある話である。要するに自分に関する認識の決定権が欲しければ、勝ち取るべきなのだ。それは自分自身に関することだからという理由で無条件に自分が優先されるような代物ではないのである。