底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

感じるとするにおける反復性の違い

タイトルについて一言

なんか論文みたい




感じる

「感じる」というのは反復性に弱い。すこぶる感動できた映画をもう一度見ても、同じようには感動できない。美味しいと思っていたものも毎日食べると、やはり最初の劇的な美味しさはなくなってしまう。感じるは新鮮さがなにより大事なのである。だから、良い刺激を感じたければ常に新しい違うものを探し求めるしかない。幸い今の世の中は日々新しいものが出回っている。およそ人ひとりが一生をかけても到底消費しきれないほどの膨大な量のコンテンツやお店がそこら中に溢れている。もはやそれらを享受し続けるだけで一生を終えられるとは、社会も大変豊かになったということですね。




する

感じるとは対照的に「する」というのは反復しなければ面白さが見えてこない。最初は何がなんだかさっぱり分からないからだ。何度も何度も同じことをして、やっと少し道が目の前に現れる。ここを進んだらどうなるのだろうというワクワクがやってくる。そうして、しばらく歩いているとまた別の分からなさに出会い、道が途絶えてしまう。だがその間もとにかくひたすらに同じことをし続けていると、ふと何かがきっかけとなって「そうか!」と閃き、再び先に続く道が見えてくる。その工程を延々繰り返すと、どんどんと遠くにいけて、物事はますます面白くなっていく。




感じるとする

毎度違うものを消費しなければいけない感じるだが、その感じたところのものはというと、だいたい似たり寄ったりである。楽しい、面白い、嬉しい、感動...。しかもその感じは一時的なもので持続しない。しないから次から次へと消費しなければならない。更には、前のものと似ている部分が少しでも目につくとすぐ新鮮な気持ちがなくなってしまって、そのものが色褪せて見えるようになる。一方でするは、していることはずっと同じだが、毎度全然違う気づきを得られる。加えて、明らかにそこには深度という概念が存在している。要するに同じことをしているだけであるが、それが自然に積み重ねになっているのである。どんどん勝手に深くなっていき、新しい景色が自動的に目の前に飛び込んでくるようになる。




性に合うのが大事

どちらがいいという話ではない。私はするが好きなのでするに肩入れして書いてしまった感は否めないが、大事なのはやはりどちらが自分の性に合っているかだ。もちろん半々でもいい。実際だいたいの人は両方をうまく組み合わせてやっているはずだ。




ただの私の経験則ですけどね

もしもあなたが感じるにはほとほと飽きていて、毎日をただの繰り返しとしか思えず、これが死ぬまでずっと続くのかと考えただけでため息をつきたくなるくらいに生活に新鮮味を失っているのなら、何か一つをするということを選んでみてほしいと思う。きっと全く想像もできなかったようなところへと、あなたを連れて行ってくれるはずだからである。

神はいなくてはいけない

神とはなんだろうか

神という言葉を真剣に口にするだけで、忌避される世の中になってしまった。現代はなんだか神はいないのだということを必死に肯定したいように見える。神とはどういう存在であるのかと問われることなく、実態が深堀されないまま、ただただその存在だけが否定されている。私から見れば、なぜそこまで強く神を拒否しようとするのかと疑問であるが、きっとそんな私をこそ世間は奇異な目で見つめるのであろう。神はいないという時、それは何がいないと言われているのか。はっきりと答えられる人は果たしているのだろうか。神がいるのといないのとでは一体何が違うのか。存在の有無を結論付ける前に、人はそれをきちんと知るべきなのではないだろうか。




神を信じていない人はいない

人はなぜ「何かに対してなぜ」と問えるのか。それはそこに不思議を感じているからに他ならない。つまり人間や自分の理に反していることが起きているのである。本来はこうであるはずなのに!という前提に対する強烈な裏切りにあった時にこそ、人は「なぜだ!!!」と問うことができる。そこにはもう神が宿っていると言っていい。こうであるはずの世界が、そうなっていないのに理由はない、それが世界というものだ。で納得できるのなら、人は最初からなぜ!を抱いたりはしない。一度なぜ!を抱いたのなら「何かあるはずだ…なぜに対する答えが何か…」と信じること必至なのである。つまりはそれが神を信じているというそのことだ。




神はいないと思った方がいいこともあるね

災害や惨い事件などが平気で起きている。だから神はいないという人がいる。神がいれば助けるはずであろう、と、そういう理屈なのだろう。随分と人間に都合のいい善良な神を想定しているのだなと私なんかは思ってしまうのだが、こういう純粋な人がいる世の中は偏に素晴らしいですね。その逆に奇跡や運命だとしか思えないような出来事も世界には沢山あるが、それはつまり神がいるということになる…?と言ってみたくはなるけれど。




精神は必ず神に目覚める

神は人間側からの要請物なのではないだろうか。実際にいるとかいないとか言う前に、いなくてはいけない。いないということがどういうことであるのか理解できない。人間にとって神とはそういう存在なのだと思う。自分自身の存在に驚いたり、何かの出会いに感動したり、人間が酷く卑小な存在に見えたり、宇宙にロマンを抱いたり、毎日のご飯が美味しく、ぐっすりと眠れることを幸せに思ったり、今日も生きていられることが嬉しかったり、反対に早く消えたいと死にたくなったり、そういうの全部全部、神がいないと成り立たないんじゃないかなぁ。ただあるだけのものをただあるだけと捉えない、捉えられないのは偏に神がそれを創ったのだと我々が信じているからに他ならないだろう。

何かをし始めるにはただする以外に道はない

思考し始めるために思考するということをしよう

思考できなくなったという記事を書いてからますます思考できなくなったような気がする。たぶんそう書いてしまったのが原因だ。物事の順序が自分の思っているのとは逆にできていることはこの世の常である。現実から言葉が語られているのではなく、言葉こそが往々にして現実をつくりあげてしまうものだ。だから語る言葉には本当に慎重にならなければいけないのだけど、まあその時の自分はそう思ってしまったから仕方ない。記録という名前のブログで正直に書かないわけにはいかない。だから、今からできることをしよう。思考する自分を取り戻すために私が今できること、その第一歩目はなんだろうかと思考できない頭で考えた。結論から言えば、それは「思考すること」である。

 

 

厳しい〜〜

結局やるしかないでしょ。できるためには~なんて甘っちょろいこと言ってないで、とにかくやる!もしくはやると決める!それだけが大事なのだ。何かをし始めるにはどうすればいいですか?なんて疑問の立て方がそもそも間違いだ。し始めるにはし始める以外にないのだから。ただし始めればそれでいいのである。分かりましたか?自分。あ、はい。

 

 

勘違いが人を分かつ

何かをし始めるのを逡巡してしまうのはきっと、自分なんかに上手くできるのかなという自信のなさが原因だ。でも、そもそも上手にできなくてはいけないなんてことはない。できる人しかやってはいけないということもない。ただ上手くできずにやっているのがちょっとカッコ悪く感じられるだけである。それも他人から見たらの話に過ぎない。自分にとって大切であるのはそれをやりたいか、やっている自分を好きになれそうか、楽しそうと思えるか、だ。思うに多くの場面で人を二分してしまうのがこの勘違いなのではないか。何かをし始めるとき、ただそれをし始められる人とそうでない人の間にある大きな差は、能力や環境ではなく上手にできなくてはいけないという思い込みだろう。だってほとんどの物事をし始めるのに必要になるのは、ただ自分の身一つであるのだから。

shikouzakki.hatenablog.com

 

 

この頃いつにも増して過去の記事を見返している

というわけで私の最近は、全く集中できない頭で、全く上手く考えられないなりに、少しずつでいいからというスタンスで、考える対象も決めることなく、とにかく気づいたら思考を始める毎日を送っている。まだまだすぐ気が散って別のことをしてしまうし、成果も全然得られていないが、しないよりはマシであるはずと思ってただ続けるようにしている。こんな時心の支えになってくれるのはこのブログの存在である。今まで考えた記録をここに残しておいてよかったと心底思う。ありがとう、過去の私。

したいしたくないと損得の話

したくないことの分類

したくないことはざっくり分類して、二つあるのだと思う。一つは本当はしたくないわけではないのだけど、理想的な形でできそうにない、それをしてしまえば失うものが多すぎるなど、特段する必要もないなど、何かの理由があるためにしたくないことで、二つは如何なる状況においても如何なる訳があっても絶対にしたくないことである。前者のしたくないことは言ってしまえばただの損得勘定なのでしたくないのではなく、わざわざする理由がないだけであるが、現実が固定的なために、したくないに分類されがちなのである。

 

 

現実は打算ばかり

世の中のしたくないはほとんどが前者である。純粋なしたくないなどないと言ってもいいくらいに、大抵がこの前者のしたくないなのだ。考えてみればこれは至極当然だと言える。何かの理由がないのなら、わざわざしたくないと拒む意味もないだろうから、したくないはそもそも「それをすると〇〇になるから」という結果に対する懸念から生れざるを得ない構造をしているはずである。しかしだからと言って、全てのしたくないは打算的な態度だと言い切ってしまうのは何か違和感がある。誰にだって例えそれをすることでどんな莫大な得が自分に降りかかってこようと、どんな甚大な損を被ろうと絶対にしたくないと感じていることがあるだろうから。

 

 

ただしたくないこと

即ち、それは最後には自分のプライドとの闘いなのである。それをやってしまったら人間として終わりだと思えるものこそが、この世における純粋なしたくないなのだ。自分の生活がどうなるだの、将来がどうなるだのとは無関係に、現実の一切を離れて、心がしたくないと叫んでいるものをこそ、人はしないように気をつけるべきである。その他のしたくないは実はしたくないのではなく、「しても得がない」と呼ばれるものなのだ。

 

 

損得の範囲

したいの方にも、同じ区別の仕方がある。したいの基準は、楽しいかどうかだ。そこに得があるかどうか損がないかどうかなどとは無関係に、ただ楽しそうと心が感じること。それが自分の切にしたいことなのだろうと思う。つまりは逆に言えば、楽しさと人間として終わりの間にあるものはただ損得で動いているのである。その損得の範囲を自分自身できちん守るのがとても大事なのだと思う。範囲を超えて、人間として終わりの先にある得、楽しさの先にある損を目指したり考慮してしまえば、人生はただの生き地獄になっていってしまうに違いない。どう考えても、自分が楽しめることをするのが人生の最大の得であり、自分が人としてしてはいけないと感じていることをしてしまうのが人生最大の損なのである。

 

 

P.S.

四百記事達成おめでとう私

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