底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

したいしたくないと損得の話

したくないことの分類

したくないことはざっくり分類して、二つあるのだと思う。一つは本当はしたくないわけではないのだけど、理想的な形でできそうにない、それをしてしまえば失うものが多すぎるなど、特段する必要もないなど、何かの理由があるためにしたくないことで、二つは如何なる状況においても如何なる訳があっても絶対にしたくないことである。前者のしたくないことは言ってしまえばただの損得勘定なのでしたくないのではなく、わざわざする理由がないだけであるが、現実が固定的なために、したくないに分類されがちなのである。

 

 

現実は打算ばかり

世の中のしたくないはほとんどが前者である。純粋なしたくないなどないと言ってもいいくらいに、大抵がこの前者のしたくないなのだ。考えてみればこれは至極当然だと言える。何かの理由がないのなら、わざわざしたくないと拒む意味もないだろうから、したくないはそもそも「それをすると〇〇になるから」という結果に対する懸念から生れざるを得ない構造をしているはずである。しかしだからと言って、全てのしたくないは打算的な態度だと言い切ってしまうのは何か違和感がある。誰にだって例えそれをすることでどんな莫大な得が自分に降りかかってこようと、どんな甚大な損を被ろうと絶対にしたくないと感じていることがあるだろうから。

 

 

ただしたくないこと

即ち、それは最後には自分のプライドとの闘いなのである。それをやってしまったら人間として終わりだと思えるものこそが、この世における純粋なしたくないなのだ。自分の生活がどうなるだの、将来がどうなるだのとは無関係に、現実の一切を離れて、心がしたくないと叫んでいるものをこそ、人はしないように気をつけるべきである。その他のしたくないは実はしたくないのではなく、「しても得がない」と呼ばれるものなのだ。

 

 

損得の範囲

したいの方にも、同じ区別の仕方がある。したいの基準は、楽しいかどうかだ。そこに得があるかどうか損がないかどうかなどとは無関係に、ただ楽しそうと心が感じること。それが自分の切にしたいことなのだろうと思う。つまりは逆に言えば、楽しさと人間として終わりの間にあるものはただ損得で動いているのである。その損得の範囲を自分自身できちん守るのがとても大事なのだと思う。範囲を超えて、人間として終わりの先にある得、楽しさの先にある損を目指したり考慮してしまえば、人生はただの生き地獄になっていってしまうに違いない。どう考えても、自分が楽しめることをするのが人生の最大の得であり、自分が人としてしてはいけないと感じていることをしてしまうのが人生最大の損なのである。

 

 

P.S.

四百記事達成おめでとう私

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