底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

肩の力を抜いていくことに肩の力を入れてしまった記事、結局いつも通り

今日気づいたわ

かたい。かてぇ。今頃気づいたのですけどこのブログ死ぬほどかたいなぁ。文体も取り扱ってる内容もかてぇかてぇ。普段全くこんなキャラでないくせに、ブログの上だけ取り繕ってやがる。やーめた。もっと語り口を軽めに、緩い内容も増やしていこっと。どうも私は文章を書くってことを重く見すぎる節がある。たぶん、ここに書く時の自分だけを「本当の私」だと捉えているからかな。とにかく思考に纏わることをしている自分しか認められないような下らないプライドがあるのだと思う。だから、ここにはそういう自分が有意味だと思える自分だけを残したいと必死になってしまうみたい。八月はどうせもう思考はろくにできそうにない予感なので、その殻を突き破るいい機会ということにして、もっと色んな自分をここに載せていこうかな。




普遍的で不変的なものが好き

なんというか、私は普遍的で不変的なものを大好きすぎる傾向にあって、そういうものばかりに魅力を感じてしまうので、短い間でころころ様子が変わったり、「誰にでも」や「何にでも」といった主語の置き換えができないものに対しては疎かになりぎみで、いつもそれらに対して真剣に向き合おうとしないのである。自分の人生しかり、今の世界情勢しかり、そういうものって何か私に関係あるんですか?とさえ思っている。だってそれらがどうなろうとも、自分が生きている限りは自分が生きているという事実がここにあって、死ぬのなら死んでいるのである。それだけが大事なことであって、その生きているということがどういうことなのか、を考える以外の物事にどうして気力を注げよう。自分の生死とはつまりそのまま、存在の有無で、言葉の意味で、世界の全てなのだ。




普遍的じゃないお話

という「誰にでも」なんて主語を少しも置き換えられない私の超個人的な興味の話をしてみたました。




テキトーにいこう

人生はとことん最後まで「無駄」であるのを時々忘れてしまうから、有意味なことしかしたくない呪いにかかってしまうのだろう。この世には確かに意味のあるものや価値があるものが存在していると思う。少なくとも、人が真剣に熱意を込めてしたことの全てに意味がないとはとてもじゃないが私には思えない。だがやはり、それを超えたところに自分の死がある。絶対的な終わりが待っている。だから、そんなに気を張らなくてもいいのかもしれない。どうせ死んでしまう。その視点を持ったのなら、およそ存在する全てのものが無意味に成り果てると同時に、有意味になるのだから、テキトーでいいのよ。うーん、ただの自己正当化かな。まぁそうだとしても、別にいっか。 テキトーテキトー。

感動はしたいししたくない

感動

何かの作品や誰かの言動によって、自分の核のようなものを強制的に変えられた、というほどの感動を味わったことはあるだろうか。私にはある。だから、私はこの世界が好きだ。それが私の生きる希望であり、生きる動機でもある。自分の奥底を自分ではないものに抉られたのだ。自分よりも自分の内に届く存在がこの世にはあったのだ。自らの孤独の殻が突き破られ、世界と自分が結びついたと感じる瞬間ほど、たまらないものはない。できればもう一度経験したいと思う、そのためにこそ私は生きている。




意地

いや、やっぱり嘘。できればもう二度と経験したくないと思う。二度と経験しないためにこそ、私は生きている。自分よりも自分の内に届く存在がこの世にあるなど認めてなるものか。自分ではないものに自分の奥底を触れられるわけがないのだ。もう絶対に同じ「錯覚」に陥らないために、私は自分以外には決して変えらない自己を見つけて確立していかなければならない。それが私の生きる希望であり、生きる動機でもある。




不変的

私は常に、変えられるものなら変えてみろよという姿勢で生きているような気がする。それで本を読み漁ったりしている。自分を変えてくれる存在に出会いたいような、決して出会いたくないような、いつもその狭間で息をしている。積極的に出会いに行き結果的に出会ったのなら、私はその変化によって更なる不変的な自己を手に入れることができる。逆に出会わなかったのなら、それはもう今の自己が相当に不変的で強固だということを表すだろう。だから自分を変えてきそうな存在から逃げることだけはしたくないと思う。それは自分の自己が既に可変的であると自己紹介しているようなものだ。可変的な部分をとり除けるだけとり除いて、最後にそこに残ったものこそが正真正銘の自分の自己なのである。




削落

最後に何が残るのか、私は見たいのだ。つまりはそれが私という人間の本質であろうから。だから私は自分を変えてくれそうな存在にとことん出会って、削ぎ落とせるものはを全て削ぎ落としたい。その先には何が待っているのか、今からは想像もできないけれど、案外今とそんなに変わらなかったりして…?いやさすがに傲慢だな。感動とは想定できなかった自身の心の動きであるから、先に自分でできるだけ想定しておくことが大事になってくる。その上でそれを突き破ってきたものにこそ、人は感動できるのである。やはり気持ち的にはもう二度と感動したくないですね。文字通り全てを想定してやりたい思いである。

八月になりましたね雑談

今日は章のタイトルはありません

八月になりましたね。特に言うことはありませんが、ブログのネタがないので、区切りとして雑談記事を書いていこうと思います。七月を振り返って言いたいことは一つ、休みすぎですね本当に。一周年を乗り越えてすっかり気がたるんでいるようです。ブログを書く意味などもあまり考えなくなり、ただ行動を決められたロボットかのように、作業でパソコンを叩く日々を送っております。いいことなのか、悪いことなのかは正直微妙なラインですね。

 

 

 

感覚もだいぶ鈍っているような気がします。以前と比べて突然の閃きや哲学的なことを考える機会はうーんと減ってしまいました。他の何に頭を使っているのかは分かりませんが、とにかく頭がポカーンとしている時間が多いです。一番の問題はそれに対して自分自身、あまり焦りを感じていないこと、もうこのままでもいいか、なんて思っている自分がちょこちょこと顔を覗かせています。絶対にいいはずないんですけど、心はもう離れているようです。

 

 

 

だから、八月からのブログがどうなるのか、自分でも全然分かっていません。今の気持ちを書くなら、ダルい、書きたくない、書くこともない、ですが、一時的な衝動だと信じたいところですね。死ぬまで続けるという意志はまだちゃんといます。ですがそれを支えてくれる自信がいつまでついて来てくれるかはもう私にもわかりません。なんせ思考をほとんどせず、労働と堕落の日々を繰り返しているので、今までと同じくらいのクオリティの記事をこれからもきちんと提供できるかどうかはとても怪しいですね。今までも別にそんな大したクオリティじゃなかっただろ?は言わないようにしてください。

 

 

 

周期的なものだと思いたい。この時期を乗り越えたらまた思考したい貪欲な自分が帰ってくると期待している。希望的観測かもしれないが、もう私に残されている道はそれしかないので仕方あるまい。思考の刺激になるようにと、読書の量を増やしたり、頭にあるものを即座に思考ノートにメモしたりと色々試しましたが、効果はなかったのです。

 

 

 

年齢的なものならあまり笑えないですね。生活になんら関係ないことを考える体力が徐々に減っていってるのだとしたら、こんなに悲しいことはない。八月からの私は一体どうなってしまうのでしょう。一日目からこんなんだと、明るい未来が全く想像できませんね。先が思いやられるたんぽっぽ。果たして自分の変化に柔軟に対応し、きちんとした一歩をまた踏み出せるのやら。

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過程と結果の価値について

1

元からその状態であることと、様々な試行錯誤を積み重ね数ある選択肢の中から最終的にその状態に辿り着くこととではどちらの方がより価値があるのだろうか。なんとなく後者であるような気がするのではないか。元から真面目に生きている人より、ヤンキーを卒業し更生した後に真面目になった人の方が称賛を受けやすいという例の現象も、人のこの感覚によっているのだと思う。しかし、元からその状態であろうと、何かしらの過程を経てその状態に辿り着いたのであろうと、同じその状態であるのには変わりないのだから、そこに価値の差があるのはよくよく考えてみればおかしいのではないだろうか。



2

元からその状態であることが価値とされにくいのはきっと、それがその人の「普通」だと考えられてしまうからだ。当たり前なことを当たり前にしていると捉えているから、その状態はただそうであるだけのものになってしまう。逆に何かしらの過程を経てその状態に辿り着いたことが価値とされやすいのは、それがその人にっては普通でないからだろう。その人なりの頑張りや苦悩を感じられ、それらを乗り越えている分だけそこには価値があるというわけである。しかし、やはり結果として同じ状態になっているのなら、そこに価値の差はないのではないだろうか。むしろ、もしその状態自体が価値であるのなら、元からずっとそれを維持しつづけていた人の方がより価値であるはずだろう。何かしらの過程を経た人は今更ようやくそのスタートラインに立っただけだと言える。




3

同じ状態であっても、元からそうであるのと、何かしらの頑張りや苦悩の過程を経てそこに辿り着くのでは価値が違うと思われてしまうのはつまり、過程にも価値が認められているからだ。苦難の道を歩いたということが、結果の価値に上乗せされているのである。逆に何かしらの頑張りや苦悩の過程を経ていても最終的に辿り着いた状態が最悪のものであったなら、その過程が賞賛されることは決してないだろう。つまり過程の価値もある程度結果によって決められるのである。しかしこれは端的に不公平であろう。だって元からそうである人はもうわざわざ苦難の道を歩むことはできないのだし、過程を経た結果が最悪であるのは常にそれを評価する者にとってであり、当人にとってはそうではない(からこそ苦難の道をわざわざ進んだのだろう)。過程に価値を認めるのなら全ての過程に、結果に価値を認めるのなら全ての結果に、そうしないと、それは偏った見方による同情でしかなくなってしまう。

生活の便利と人生の醍醐味について

車はもうこりごり

近頃色々な機会によって、私は車の運転を覚えた。免許は五年ほど前に取得していたのだが、長いことペーパーをやっていたのである。便利の象徴であるような車を扱えるようになって、私は少しだけこの世界から自由になったはずだ。重い荷物の買い物や、遠距離の移動もそれほど億劫ではなくなり、一人で静かに空調が整った空間のまま移動できるという最強の環境も手に入った。生活は確実に豊かになった...なったのだがしかし、私は自分の予想に反し車がなかった頃に比べて逆に圧倒的に不自由になってしまった。常に周りを見渡して意識を研ぎ澄ましていなければならないこと、思考に夢中になっても現実から一瞬も視線を外せないこと、心打たれる綺麗な景色が目の前に広がっていても即座にカメラを構えられないこと、面白そうな小道を見つけても気軽に入るのを許されないこと、ワクワクするようなお店に出会えても駐車場がなけりゃその戸を叩けないこと。まだ運転を覚えて数日だが、もうこりごりである。




便利のための便利のための便利のための便利の…

便利の代償はあまりに大きいと感じる。予め決めていた目的以外の全てが簡素化されその趣きを奪われる。目的に至る過程はもはやただの無味乾燥な手段でしかない。便利とは本来、時間や体力の節約のためにあるのだろう。嫌なことを少しでも短縮し楽にして、他のことに精力を回せるようにするというのが便利の価値である。ところで、その便利によって節約された時間と体力を我々は一体何に使っているのだろうか。まさか、お金という究極の便利を手に入れるための備えではあるまい。いやまさかね。便利のために便利を極めているなんて、いくら人間でもそんな馬鹿なことはしていないでしょ。そうですよね。




人生とは生活、生活とは人生

人生が終わるその日まで人は生活を送らなければならない。生活がどれだけ便利になろうが、死なない限りそこに待っているのは結局生活なのである。節約された時間と体力に端的な使いどころがあるのならいい。だが、もしないのなら便利に対しては一度立ち止まって考えてみるべきなのではないだろうか。便利のせいで目的ばかりを必死に追ってしまって、道中にある自分の心が躍るような出会いを逃してはいないか。少し寄り道をするくらいの余裕さえなくしているのではないか。人生は別に便利のために存在しているのではない。効率よく生活を送れることよりも、生活それ自体を楽しめることの方がずっと大事であるはずだ。「無駄」や「回り道」は楽しさの本質である。自分を喜ばす以外に何の意味もなく、目的からも遠ざかるような、便利とは正反対にある道を時にわざわざ歩むのが人生の醍醐味だろう。