底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

他人を介さないと自己満足できない

代わりに誰か愛してやってください

私の記録をつける。それがこのブログのメインテーマなので、記事ごとのクオリティはそんなに高くない。それでもブログである以上はやっぱり他人に読んでもらいたいと思っているので、あまりに記事としての出来がひどいものは出さないように心掛けている。だがブログをほぼ毎日継続的に書くにあたって、記事のクオリティを揃えるというのはとても難しい。その日の体調や気分や考えている内容によってどうしても充実度や正確さにバラつきが出てしまう。正直、できあがった時に自分の中で及第点に届いてないなと感じる記事も少なくない。そういった記事を世の中に出すことには一定の躊躇がある。あるが、それでも最後は尻込みせずに出すことにしている。なぜなら、そうした方がこれからもっとよい記事が書けると考えているからである。それらの記事には、そのための犠牲として世の中に出てもらっているのだ。可哀想だとは思う。なにせ生み出した私がその記事自体を愛せず、踏み台という道具として利用しているのだから。しかしやはり出てもらわなきゃ私が困る。ほぼ毎日書くというトンネルを塞ぐわけにはいかないんだ。すまんな。分かってくれお前たち。




毎度毎度素晴らしい記事を書く。それは理想だけど結局ただの理想である。それが現実になるには果てしない努力と時間が必要で、その過程でたくさんの失敗作が生まれるのは必然である。大丈夫、これらの失敗作は成功のためにある。いつか生み出す全ての記事が素晴らしいと自分で思えるくらいになれる。だから手を止めるな、失敗を晒すことに臆するな。犠牲になっている記事達のためにも書き続けろ。と私の心に住み着いてる修造が申しております。




恐れることを恐れることが恐れるべき事態だ

失敗を恥じる、それは悪いことではない。少なくとも開き直るよりは百倍マシである。失敗を恐れる、それも普通の反応である。怖くない失敗なんてそもそも失敗とは呼べない。問題はたぶん、恐れることを恐れることにある。恐れることに恐れて、身動きとれなくなることが何より恐ろしい。




いつもお読みくださってありがとうございます

失敗を成長の過程と捉える、それはただの自己正当化のための都合のいい解釈なのかもしれない。究極的にその成功を望んでいるのは私だけなのだから、それらの失敗作を世に晒して得するのは私しかいないのだろう。自己満なら他人に見えないとこでやってほしいですね。私に言ってるんですよ。聞いてますか。いやーそれができたら苦労しないですね。それができたらブログなんて書いてないんですよ。自分は他人を介さないと自己満足できない人種らしい......。見苦しくてすみませんが、これからもどうか読んでやってください。全私が救われます。

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