底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

もっと気楽に生きたいですね

1

何か思い浮かばないと指を走らせてはいけない気がする。何か有益なことを書くのでないのなら記事にしてはいけない気がする。たぶんそういうことをいつも考えているから、投稿が遅れに遅れて夜中になってしまう。で、結局何も思い浮かばないまま指を走らせるし、有益なことも全く書けそうにないまま毎回記事にしている。それをもう二百回くらいはやってきたと思う。まったく学習しない女ですこと。 

 

 

2

意味のあることをしたいという動機は誠に不純であると思う。なぜならそれは「意味のあることをしている自分自身に意味があると思いたい」でしかないからだ。思うに人が自分自身以外の何かを願う時には、全ての動機は不純であらざるを得ないのではないか。自己利益になるから、自分がそうしたいから、快楽を感じられるから。それら自分が満足する以上の理由は偏に嘘であろう。正義も愛も優しさも全部自分のために過ぎない。自分のためでない自己満の範囲を超えて何かをするなど、人はそんな能力を持ち合わせはていないのである。

 

 

3

意味のあることをしたいは動機として不純であるだけでなく、自分に大きな言い訳をももたらしてくれる。つまりは、意味のあることが出来ないのなら、何かをやる資格はない、意味のあることができるようになってからやるべきだと、今やりださない自分を周到に正当化してくれるのである。しかもこれは正当化であるだけでなく、本当に正しい。何かをやるのならきちんとできるに越したことはないのだから。

 

 

4

何も思い浮かばなくても、何か有益なことを書けなくても、ただ自分の心に委ねて、気ままに指を走らせた記事でいいではないか。きっとそう思えることが一番いいのだと思う。本当に大切なのは今の自分にしか抱けない思いや気持ちを書いていくことであるはずなのだから。それこそが逆説的に最も意味のある行いであるはずなのだから。他の一切は他人に任せられても、この行いだけは無理である。

 

 

5

自分には自分の足場がある。いつもそれを忘れがちになる。すぐ見栄で他人や世間の足場に登っては、そこから自分の存在価値を見出そうとしてしまう。そんなところにあるわけないのに。いや、どこにだって自分自身の価値を保証してくれるものはないのである。自分の足場とて、ただ着実に一歩一歩自分の人生を登っていくためにしか存在していない。価値ある自分や、価値ある人生などは所詮は夢物語である。自分にしかいできないことをやってのけたとしても同じ。全ては最初から無意味なのだから、本当はもっと堂々と、淡々と、ただ自分の心に、人生の流れに身を委ねてもいいはずだ。

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