底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

善人しかいないと信じていたい

信じていたい

この世には善人しかいない。ただ善の形が人それぞれ違うのと、善くあろうとしたけれども様々な要因で失敗して結果的に歪な形になってしまった人がいるだけだ。そう書くのは世界の現状からしてあまりに綺麗事と思うが、少なくとも私はそう信じている。そう信じていたい。だって悪より善の方が「よい」なんてことは人である限り誰にとっても自明すぎるくらい自明なことであろう。ただそう知りながらそうできない人がいる、そうする理由を貰えなかった人がいる、そうすることを許してもらえなかった人がいる。




自分は善人ではない

と言ってはみたものの、自分のこととなると話は別である。自分は善人だと胸を張って言えるほど善人ではないし、善人になれなかったのには事情があったなんてこともないからだ。悪人とまではいかないけれども、善くはない。善いと言える状態までは程遠い。私的な自己評価はそんな感じである。それをそのまま他人に適用しないのは、そうしても自分には何のメリットもないからだ。他人を自分のように理解することはできない。必ず不明瞭でよく分からないところがあるのが他人だ。そのどうしたって見えない部分、どうしたって分からないところを悪く想定しても、自分に何の得も生まれない。だが、善く思えばその分他人と関わるのが楽しくなる。ただの慰めであったとしても、こういう善意が隠れているかもしれないと考えた方が自分がハッピーな気持ちになれる。
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許されないものは許されない

善人だったらこんなことするはずがないと思うような惨いことが毎日世界のどこかしらで起きている。どう見ても悪人にしか思えないような人がどこの国にも多く存在している。そういう人達に対しても本当は善人なのかもしれない、本当は何か事情があるのかもしれないと思いやるべきだとは口が裂けても言うつもりはない。そんなことをする必要もない。許されないものは決して許されない。




悪に出会い人は善人になる

善人だと信じられる限りにおいて信じたい。それが私の願いである。そうする方が自他共に楽で生きやすいと思う。誰か疑ったり許せないと思ったりすることは端的に精力を削がれとても疲れる。そうしないでいられるならそうしない方がいい。誰だって最初はそう思っていたはずだ。ただそう思うと、この理不尽で酷い仕打ちは一体何なのかとどうしても納得できないような出来事に出会う。その納得の形を探そうと誰もが藻掻いた結果、世界は今のようになったのではないか。つまり、ある事を悪としなければ生きていけない、生きている意味が分からないというような思いによって世界に悪が生まれ、と同時に人は善人になるのではないだろうか。
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