底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

書くことは逃走だ

1

現代の隣に生きる人々とどうしても心を交わせない。そういうことが悲しくてやるせなくて、私は筆をとる。どうしてこんなにも言葉を尽くしているのに分かり合えないのか。他人なのだから当たり前だ、と理性では分かる。だが心はやはり寂しい。その寂しさを諦めたくなくて、私は未来に、もっと遠くにいる人々に言葉を託す。いつかどこかで私の言葉を受け取ってくれる人が、心の底から共鳴してくれる人がひとりでもいればと、そう願って。

 

 

2

分かり合えなくても、分かり合えなさを分かり合えるはずだ。それが私の思うところである。だから言葉を尽くせば、その分かり合えなさに共に辿り着けると信じてやまない。ところが、現実はいつもその随分手前で躓く。まず周囲の誰もその分かり合えなさを分かり合いたいと願ってすらいないことに気づく。分かり合えるとか合えないとか、そういうこと以前にそもそも誰もそんな話には興味がないのであるし、そもそも誰もが「何かを分かり合う必要があるのか?」という顔をしている。そのことがたまらなく私を寂しくさせる。いつもいつも前提であるはずの認識にすら共に至ることができない。

 

 

3

それでも諦めずに幾度となく隣の人から挑み続ける。それが本来の私の進むべき道なのだと思う。だが、そうするのはもう疲れた。希望も見えない。だから書くという行為に頼る。現代が隣が無理なら、未来に遠くにいる人々に呼びかけようと、そういう魂胆である。これは一種の諦めだ。だから私は長いこと葛藤している。後悔のない死を目指す私にとって、諦めによる執筆はまさに後悔そのものを生むと既に分かりきっているから。原始の願いは現代の隣の人々と心を交わすことであって、それ以外ではないのだから、書くことは必ず諦めによる逃避になる。私は書くべきではないのだと、常々思うのだ。

 

 

4

だが、何度でも私はここに舞い戻ってきてしまう。現実に向き合う強さがないから。希望を見出す頭の良さもないから。未来に、見知らぬ他人に逃げて、話を聞いてもらおうとする。書く自分を受け入れられない。そういう弱い自分を作り出したくない。だけれども現実は書くことを避けられない。その板挟みでいつも苦しい。いい加減決着をつけたいという思いに駆られる。書くのか書かないのかはっきりしろよって、そう思うのだけど、たぶん私は一生ここから抜けられないのだと思う。そうやって延々ともがき苦しむことが、唯一のかろうじて現実と向き合うための方法だからだ。

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