底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

才能とはなんだろうか

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27歳にもなって考える。自分にはどんな才能があるのだろうかと、もうここまでで目覚ましい出現がないのならそもそも才能なんてないのではないか、と思う。根拠はないがたぶんこれが正解だろう。才能があるのならもっと早くに何か頭角を現しているはずである。私はただの凡人。いや凡人にもなれなかった底辺だ。しかしそれが分かったからといって、私の人生がどうにかなるのかと言えば、全然そんなことはない。才能があろうとなかろうと、やることは同じである。私は私の人生を生きる、それだけだ。

 

 

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しかし、才能があればなと、そう夢想することは幾度となくある。その有無に関わらず、やることは同じであるけれど、できることの幅はやはり全然違ってくるからだ。才能を持ち合わせている人が目につけば、純粋に羨ましいと思う。私もそのくらいのことができるようになりたいと思わずにはいられない。けれども、その才能は私のものではないと、やはりはっきり自覚しているので、そんな情念を抱きながらも、私は私のやるべきことをやっていくだけである。

 

 

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才能というのは出現した人以外は死ぬまで、いや死んでからもあるかどうか分かるような代物ではないのだと思う。そこにあるのはいつも個人の推測であって、その有無が事実として確定する、なんていうのは絶対にあり得ないのである。だってそんなのどうやって分かるというのだ。何ヶ月何年かやってみて上達しなかったらそれが「才能がない」ということになるのだろうか。ならないであろう。それは所詮「何ヶ月何年かやって上達しなかったので才能がないと断定した」ということに過ぎない。もしかしたらあと1ヶ月、1年やっていたら開花していた、なんてのは大いにあり得る話だ。

 

 

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上達するかどうか、頭角を現すかどうかに関係なく、あることをやり続けられるその心をこそ才能と呼ぶ向きもある。これは一面の真実であると思う。けれども人々が才能という二文字に込めている意味は、それだけではないであろう。それは確かに一面の真実ではあるけれど、同時に綺麗事であると言わざるを得ない。才能に含意されている「人よりもその点において優れていなければならない」という側面を見て見ぬふりはできないのである。思うに才能とは後で振り返るべき代物ではないだろうか。する前から考えるのではなく、人事を尽くしたあとで「あれが自分の才能だったのかな」と検討をつけ、それを更に前に推し進める。才能とは常にそうして少しずつ開花していくものだという気がするのだ。

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