底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

成長は副次的なものだ

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成長なんてのはしないで済むのならそれに越したことはない。ある物事を成長を伴わずに楽しめる人と、成長を伴うのでなければ楽しめない人がいたら、明らかに前者の方が得であろう。世の中では成長を無条件に良いものと捉える価値観がどうも蔓延っているようだけれども、本人にとってみればその多くはただ必要性に駆られただけのことに過ぎない。そもそも成長というのは単なる過程であって、それ以外のものではない。だから、目標にされるようなものでもなければ、誇りとなり得るようなものでもないのである。ただ物事を行っていく過程として淡々と存在することがあるだけだ。

 

 

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自分が成長したなと実感できる瞬間が来ると確かに嬉しい。以前はできなかったことができるようになるとあぁ本当に続けてやってきて良かったなと思える。だがそれはやはり一瞬の喜びで片付けなくてはならないものだ。続けてきた目的も物事の本題もそこにあるのではない。成長しようとしまいと、今の自分に何ができるのか、これから何をしていけるのか。大事なのは常にそこである。喜びを誇りに転換させていると、待ち受けているのは、自身の成長の停滞と他者への見下しの視線だけである。

 

 

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自分が成長したことに重点を置くとどうも、誰もが自分と同じ道を辿れば成長できるという観念に陥りやすいようだ。つまりは成長していない他人をなべて、まだ自分の辿ってきた道を見つけられていないのだな、などと一律に酷く傲慢で粗雑な視点で眺め始めるのである。そもそも成長したいかどうかという他人自身の思いさえも無視して、成長していないのなら、それは人生に鈍感だの、怠惰でサボっているだのと短絡的に物事を決めつけるようになってしまう。

 

 

4

誰しも最初は「あれをしたい」と思うからこそ、それを目指すのである。成長とはただその思いにより生み出されることがある一つの副次的な結果に過ぎない。だが人はいつしかそこに気をとられる。副次的なものと本題を逆転させて、成長した自分の方ばかり意識する。当初の目的が叶っていてももはや満足できない。きっと一度意識を始めた成長には終わりがないからだろう。本当はどこかで切り上げて、もうあとは喜びに浸るだけにしたい、これ以上走り続けたくない。ここがゴールということにしたい。そういう無意識が人を、自己愛の沼に突き落とす。成長は意識しなければただの結果だが、意識してしまえば永遠にその先が見えてくる。どこまでもどこまでも上が待っている。終わる時は自然にはやってこない、終わりが来た時は、必ず本人の諦めや欺瞞を意味する。だからその道を走る人は得てして、共に走らない人を許せない。まだ成長を意識していなかった頃の自分には決して戻れないから。

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