底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

恥ずかしい自分を隠すための自己正当化

またかよ

何かよいものを書かなきゃ、そういう観念に一度囚われると抜け出すのは中々難しい。そして、私は今まさにその渦中にいる。これを意図的に破るために、私はあえて内容をあまり気にしないようにしてこの記事の執筆を行っていこうと思う。以前もそのような思いでがんじがらめになっていた時、一つの記事を書くことによって答えを得られたので、安直ではあるが今回も書く行為を頼みの綱にして、ゆっくりと整理していきたい。

shikouzakki.hatenablog.com

 

 

漠然な願望の裏には自己正当化が隠れている

上の記事で、私はよいものを書きたいという漠然とした願望は、よいものを書けない自分を正当化するために抱くものであり、それ故にそれはただの逃げであると書いた。これは今でも変わらない考えである。具体的な目標を掲げるのでもなく、今すぐ行動するのでもないような、漠然とした思いは大抵の場合嘘である。よいものを書くべきなのに書けない、よいものを書けないなんて自分には書く資格がない。書くことを自ら諦めたのではなく、「資格がないから仕方なく」書いてないんだ。漠然とした願望の裏にはそのような無意識によるずる賢しく醜い自己正当化が隠れているものである。

 

 

自己正当化の裏には恥ずかし自分が隠れている

ではなぜそのような自己正当化をするまでに至るのか。その答えが今少し見えてきた。たぶんそれは単に恥ずかしいからであろう。自分の本当と向き合うのが恥ずかしい。自分の本当を晒すのが恥ずかしい。自分という存在自体が恥ずかしい。その恥ずかしさを他人に知られるのが恐ろしい。だから、自分にバレないように自分を騙そう、何か崇高で壮大な思いを抱いているふりをしてそこに蓋をしよう。うへーこの人めっちゃすごいな〜と思う人に出会う度、私はこの望んでもないルーティンを繰り返す。信念とか自分というものがあまりないために、揺らぎやすいのだろうな。書くことを絶対にやめないということだけは常に思っているのだけど、信念にしては内容がなさすぎるので、他人と自分を割り切る道具としてはあまり使えない。

 

 

たぶんね

いけないことをしたから恥じる。恥じるってそういう時に抱くくらいで十分なんだけどな。すごくないから恥ずかしいっってなんなんそれ。そもそもの自分を過大評価しすぎじゃないか?自分。まぁでもともあれ、この記事を書くことによって恥ずかしい自分の存在は晒されたであろう。私にとっては一つの前進と言える。私的に恥ずかしいことは一旦人に知られたらなんか諦めがついちゃうので、恥ずかしさによる一連の悪いルーティンに再び陥ることは、これで防げるようになったはずだ。たぶん......。

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