底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

死を超えた意地が欲しい

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死を超えた意味が欲しい。途中で死んだとしてもこの道を歩めただけで全く構わないと、そう思えるような大きな目標と信念をどうにかして持てないものだろうか、と考えるのだけど、残念ながら今のところ、惰性で続いているブログが一つあるだけである。全く目標もなければ信念もない。死を超えるにはあまりにか弱く、力不足なブログがほんの一つ、ここにあるだけである。まぁそれでも何もないよりはマシだけれども、死など全く恐れるに足らんと人生を真っ直ぐ貫くような道を歩んでみたいと、時として切に願うのである。

 

 

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これをしていれば死んでも構わないと思える。そんなものって人それぞれ何か与えられているんですかね。家族との幸せな生活であったり、使命感を抱く仕事であったり、夢中になれる趣味であったり。それら全部何もないのは未だ出会っていないだけだと、そう都合よく捉えてみたいけれども、実際はやはり違うのだろう。何をしても死んでも構わないなんて決して思えない。それが私の答えだから。所詮は生の内容に過ぎない生き方ごとき、どう変わろうと死んでも構わないと思えるわけはないのである。

 

 

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死を超えられる意味など何もない。死ぬ現実をしかと見つめ、一生懸命に生きたところで同じである。一生懸命に生きれば、残された人々には意味を与えるかもしれない。けれども、死んでいく自分にとってはやはりなんの意味も残らない。どんな道を歩んでも、これで良かったんだとは決してならない。生は形式、生き方は内容。どんな生き方をしようと、それは生という形式の中での話であり、生の外側に飛び出て、生そのものを肯定などできるはずもない。

 

 

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しかしだからこそ、大きな目標と信念を持ち、死を超えられないと知りながらも一生懸命に生きる人はかっこいいと思う。まるで自分の死を超えた重大な何かの意味があるように生きる様は、人々に勇気を与えるし共鳴もしやすい。なぜなら、それはかっこいいからである。構造的にはおよそ肯定などできないことだけども、意地で乗り越えようとする、そんなところに人の尊さがある。できない?知るか。やるんだよ。だってそれしかないじゃない。大人しくただ死を受け入れるなんて悔しい。死んでも良いって絶対思ってやるんだから。死を超えた意味をつくり出してやるんだから。現実にできるかどうかではなく、そんな意気込みを持ち生きる人を私は限りなく尊敬する。なぜなら、それはかっこいいからである。

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