底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

精神は必ず理不尽に死を迎える

現実では「なぜか」精神と肉体はリンクしている

死は肉体から考えれば必然であるが、精神にとってはそうではない。現実において精神は肉体が死ぬから「なぜか」連なって一緒に死ぬだけであり、精神が死ぬことの理由はいかなる文脈でも説明が不可能である。自分という存在は言わずもがな肉体よりは精神に近い。肉体が多少の損傷を負っても私は依然私であり続けるが、精神に僅かでも異常をきたせば、私は簡単に私でなくなってしまう。それだけ自分に近い存在であるのにも関わらず、死ぬ原因が未だ全くもって分からない。分からないということは当然対策のしようもないということ。その意味で人は常に忽然と自分の精神が死んでしまう恐れに晒されているのである。

 

 

死ぬのが怖い…

日常で死を恐れている人が極端に少ないのはやはり私にとって不思議なことである。死は絶対的な終わりであり自分を未来永劫無に帰す。その上それがいつくるかも人には知りえない。そんな状態で皆「普通」に生きている。凄い…としか言いようがない。今にも自分は死んでしまうかもしれない、そうしたらもう二度とこの世界に自分は現れない。毎日それを眠る前に反芻しては、不眠的生活を送っている。私は目を瞑ることがたまらなく恐ろしい。もし二度と目覚めなかったら…?

shikouzakki.hatenablog.com

 

 

精神は必ず理不尽に死を迎える

精神の死に理由はない。それはつまり死に納得することは不可能であるということ。肉体は老衰や病気の場合徐々に死に至るものだが、精神の死は必ず突然でしかも一瞬である。生と死の境目はとてもくっきりしているはずだ。要は「私は存在している」と思う私がいるかいないか。その間というのは意味が分からないので考えられない。精神は死に至る過程を経ずして理不尽に殺されるのである。なぜ?も、どのように?も全く謎に包まれながら私は死ななければいけないのだ。

 

 

答えはどこにある

人生で如何なることを成し遂げても如何なる生き方をしても、死には納得し得ない。なぜなら生きていることは本来奇跡であるのにも関わらず、自分にはどこまでも当たり前のものとして映ってしまうからである。私は生きたことしかない。だから生を当たり前として捉える能力しか持っていない。奇跡だと瞬間的には思えても、それを一生涯思い続けることは出来ない。精神には死に方がない。死しかない。だからその死の想像のできなさが私をより一層生に縛り付ける。私は死ぬ。それだけが決まっているけれど、他は何も分からない。今にも死んでしまうかもしれない精神と私はどう向き合えばいいのか。その答えがこの世にあるとは思えない。けれどないともはっきりは言えない。

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