底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

やっぱり生きときゃよかったと思わないために死なない

いずれ悪いこともあります

生きていればいずれいいことがある。これはただの綺麗事だ。現段階で将来に起きるであろういいことがいいことに思えないからこそ、死のうとする人がいるのだから、そんな言葉はその場しのぎの子供だましである。およそ説得にも慰めにも使えはしないだろう。確実に言えるのは、死んだらもう生き返らないというそのことだけである。それでも構わないと本人が覚悟したのなら後はどうにもならない、外野がかけられる言葉はもうそこには残されていないのである。




死ななくてよかったけど、死んでも別によかった

生きていれば予想だにしない、いいことに恵まれることはなくもない。人か物事か或いはもっと他の何かに、人生を一変させられる。そういう経験が事実として私にはある。哲学との出会い、書くこととの出会い、それらははっきりと私の人生を大きく変えてきた。四、五年前からは少しも想像できないような場所に今私は立っている。あの頃に死ななくてよかったと思う。よかったと思うけれど、でもあの頃の自分に感謝しているというほどではない。つまるところ、私にとってのいいこととは生きているからいいのであって、生きているそのこと自体がいいのではない。死んだのちにもう一度人生を歩みたいかと問われれば、その答えは確実にノーである。




生から死は一方通行

死ぬ間際になって「あ、やっぱり生きときゃよかった」と思うかもしれない。その可能性を今完全に排除することはできない。自分から死を選ばない理由なんてそのくらいのことでしかない。生から死を選ぶことは可能だが、死から生を選ぶことは決して叶わない。だから、死に対しては慎重にならなければいけない。死んでから死ななきゃよかったと後悔してももう遅い。絶対に後悔しない、その決意と自信があるのならいいが、そうでないのならやはりやめておくべきだ。




素直におなり

生きていればいいことが多いのか悪いことが多いのか。たぶんだけど悪いことの方が多い。それでもそれは生きてみなければ分からない。いいことの方がずっと多かったやんけ!となる可能性は少ないにしろゼロではない。たとえちらついて終わるだけだとしても、希望がそこにある限り、諦めるわけにはいかない。全ては死ぬ時にしか分らない。だから結局そこまで生きるしかないのだ。今のこの苦しみにおよそ意味などありはしないだろうけど、四、五年前から想像できなかった今があるように、四、五年後の未来にも今の想像を遥かに飛びぬける出会いが待っているかもしれない。なんて、アホらし。生きていきたい。そう素直に言えばいいだけの話じゃない。はい。

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