底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

自分の書きたいことってなんだろな

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相変わらず自分が何を書きたいのかさっぱり分からん。書かれた記事を読み返すと多くが「まぁ書きたかったことじゃなくない」くらいのものにしかなっていない。全然心からの叫びを果たした感じがしない。もっと他に書きたいことがあるはずなんだけどなぁという思いがしこりとなって残り続けている。でも、じゃあ何を書きたいの?と正面きって問われると、本当にさっぱり分からん。自分のことなのに、分からなさすぎてつい苦笑したくなるほどである。なんとなくここで「だがだからこそ私は書いている」と安易に繋げてみた。あぁきっと、これ以外に答えはないのだろうな。

 

 

2

自分が何を書きたいのか、それを知るためにこそ私は書いている。今まで書いてきた文章は全てそこにたどり着くための、いわばモヤを外していく作業だと捉えることもできる。自分の中心に一体何があるのか、それをきちんと見てみたい。今のところ分かるのはどうもそれは人生とか生死とかテツガクとかそういうものに近そうなことくらいだ。何かそういうところに私の本当に書きたいことがあるはずだ。

 

 

3

本当に書きたいことをどうしたら書けるか。経験則で言えばきっと、数を打つしかないのだろう。たくさんたくさん書いてれば、運でたまにその本質を少しくらい掠める。中心から遠いモヤを文章化して消していくことでだんだん近づいていき、気まぐれに本当が顔を覗かせるのである。書きながらそういう瞬間を待つしかない。今までいくつかの記事では本質をほんのわずか記すことに成功していると思う。だがやはりまだまだ足りない。もっともっと書きたいことと寸分たがわない文章を書きたい。自分の書きたいことがなんなのかさえ分からないけれど、とにかくそんな文章を書いてみたい。いずれにしろ、叶えるにはやはりたくさん書くしかない。

 

 

4

そもそも「本当」なんてないという見方もある。その時々に書きたいことが小さくあるだけで、その奥には何も隠れていない。自分の中心も相変わらずモヤがあるだけに過ぎないという見方だ。これはこれで真実味がある言説と思う。少なくとも現実との明確な矛盾は見つからない。だけど、好みの問題で私はこれはあまり好きではない。なぜなら、ワクワクしないから。面白みがないから。挑戦性がないから。そんな淡々とした毎日なら、もはや書かない方が幾分かマシである。何かについてその存在が分からないのなら、ないよりはあるかもしれないと想像する方が私は好きである。なぜなら、その方が楽しいからだ。

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